2017年 4月 の投稿一覧

人生を導く大きな力とパラダイムシフト

昨日は感情解放ワークショップでした。ゴールデンウィーク中にもかかわらず、お集まりくださったみなさま、ありがとうございました。

継続してご参加くださっている方々でしたので、最近浮上しているテーマや、取り組みの進捗などをお伺いしながら質疑応答など進めていきましたが、実践部分では、みなさんそれぞれに深いものを受け止めていらっしゃったと思います。

私自身にもあることですが、深く抑圧された感情でよく出てくるものの一つに、「見捨てられた絶望」があります。誰しも、こんなものは味わいたくないものだと思いますが、どんなに抑圧しても、これを持っている限りは日常の様々な場面でこれがトリガーされて、自身の言動に影響を与えてしまいます。

たとえば、見捨てられたくないが故に、相手の望むような自分になろうと過剰に頑張ってしまったり、認めてほしいとあらゆる方法で相手の気を惹くような行動をしてしまったり、といった具合です。

相手に見捨てられることの痛みは、人によって様々ですが、ものすごくショックを受けて凍り付いているとか、生きていけない、死んでしまうほどの恐怖を感じる。守ってもらう人がいない心細さ、途方に暮れる感じ、存在する価値がないという無価値感などが浮上したりします。

単に「見捨てられた絶望」といっても、このように人によって微妙に異なった感覚や感情があるので、漠然としているよりは、できるだけ詳細にその感覚や感情を見ていった方が、解放はよりスムーズに深くなります。

そのために、その「見捨てられた絶望」を感じた具体的な場面をイメージしてみるのはとても有効です。

そうするとより生々しい痛みが浮上して来るので、まだ辛い感情を受け止める心の筋肉がついていない人はすぐに眠くなってしまったり集中できなかったりして難しいかもしれませんが、ゆっくりと少しずつでいいので、命の呼吸をしながら身体の感覚とともに、受け止めていかれると、随分楽になると思います。

心の古傷にふれるのは、なかなかに辛いものです。けれど、蓋をして忘れればそれで終わるかと言えば、けっしてそういうことはありません。

きちんと対処されなければ、いつまでも傷はじくじくと痛んで膿み腫れて、触れるたびに痛みを発します。心は見えないので、外傷ほど丁寧に対処されないことが多いですが、それ故に、自身が気づいて対処が必要であると認識できることが重要です。

自身の現実に、なぜ繰り返し傷口に塩を塗るような出来事が起こるのか、不思議に思う経験がある方も少なくないでしょう。それはすなわち、痛みを忘れて傷を放置しないように、きちんと対処するようにというメッセージなのです。

傷ついた自分を大切に慈しんで、ケアしてあげる気持ちを、どうぞ自身の中に育ててください。

傷ついているほど、自分を大切に思えなくて、価値の無い存在だという風に自身を扱ってしまいがちです。また、そんな自分を憎んで、自分を汚したり、余計に傷つくようなことをしてしまう、いわゆる自傷行為のような行動に駆り立てられる衝動を抑えられない時もあるかもしれません。

とても苦しい状態だと思いますが、どんな地獄であろうと、私たちは永遠にそこにいるわけではありません。必ずそこから脱出していく時がやってきます。

空っぽになった自分のエネルギーが少しずつ少しずつ溜まって、あるとき、再び立ち上がって歩き出そうと自然に思えるように成るタイミングが来るのです。

人生は、辛抱強くあなたが再び立ち上がる日を待ち続け、そしてそこに向かって導いていくでしょう。

けれど、しばしば私たちはそんな人生の導きにどうしても背を向けずにはいられない心境のときもあります。差し出されている救いの手を振り払って、「もう歩きたくない!」と再び死んだように彷徨うことを選んでしまうのです。

私自身もそういうことがあったし、サロンに見える方の中にも、少なからず意識・無意識的にそういう選択をしていて苦しんでいる方があります。

そういう選択を方向転換するときは、なかなかに苦しいものです。口惜しさ、怒り、悲しみ、どうしようもない閉塞感、神への憎しみなどといったものを受け止めながら、自身の在り方を再選択していかなければなりません。

こじれてしまった人生との関係を、再び健全な形で結び直すには、今の在り方をいったん、崩さなければならないのです。この作業が、なかなかに苦しかったりするのですよね。

ただ、このプロセスを経る中で、私たちは以前よりもぐっと深く人生を導く大きな力を感じたり、様々なものに感謝したり、霊的な成長を経験したりします。

「私が私が」という「我」で生きていたこれまでの在り方が、大きくシフトチェンジしていくのはそういうときなのです。また、このシフトは私たちがより大きなパラダイムで生きていくようになるには、不可欠なものです。

人生のあらゆる側面で行き詰まりを感じているときは、まさにこのシフトを経験していくタイミングに来ているということなのかもしれません。

自分に正直に、埋もれていたあらゆるわだかまりを吐き出して、人生を導くこの大きな力に、「ガチで」相対してみてください。必ず、何かがあなたの中で変化していくでしょう。

 

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未来への期待とプレゼンス

前日の憎しみの解放のワークで、「憎しみを解放するときはしっかり憎まなければならない」ということを実感したわけですが、私たちの多くはこうしたいわゆる「ネガティブ」と言われる感情は「良くないもの」と教えられることも多いので、自分に憎むことを許せるかどうかというところもチェックポイントになるでしょう。

自分に憎むことを許せていないと、自分の中に憎しみがあってもそれに気づくことができませんし、ましてやそれを浮上させ、表現することなど不可能になっていまします。

セッションなどでもよく聞かれる言葉ではあるのですが、憎しみという感情を持っている自分にとても失望するという風に言う方があるのです。

誰しも、自分はみんなから好かれる良い人であった方が良いし、慈悲深く、愛嬌があって素敵な人でありたいと多かれ少なかれどこかで思っている部分があると思います。

だからこそ、そうした理想とは正反対の要素を自分の中に見つけたとき、がっかりして自己嫌悪に陥ったりするのです。

自分の中のより深いネガティブな要素に向き合っていくには、前段階として、そうしたものを口先だけではなく、真に許容できる自分になっている必要があるでしょう。そして、大きな感情のエネルギーを心と体で受け止められるだけの「心の筋肉」がついていなければなりません。

地道なワークの積み重ねが、こういう時に生きてきます。

様々な自分の側面を否定せずに在るがままに見ることができ、そして受け止められる力がついて初めて、浮上して来る深い痛みがあります。

ワークで、抑圧された感情を受け止め、統合するほどに楽になっていくのは確かですが、同時に受容の器も育っていくので、それまで出てこられなかったより大きな痛みが出てくるようにもなるからです。

ワークでは、その時々で浮上するものも違ってきますし、自分自身の状態も違うでしょう。注意深く自分を観察して、どんな状態にも執着せずに、今差し出されている現実とともに在りましょう。

もっとこうでありたい、こんな風だったらよかったのに、そうなるべきだ、という理想を追うほどに、自分でも気づかぬうちに自己否定をしてしまったり、「未来への期待」というマインドのストーリーに足を取られてしまうことがあります。

今この瞬間の差し出すものを選り好みせずに受け取って行く取り組みは、かなりの注意深さと洞察力を要します。一歩一歩、丁寧に進めていきましょう。

ここまで解放を進めてきて、特にリトリートから帰って来てから、まだのこっているものはあるものの、大分憎しみや悲しみなどの感情を解放できたせいか、プレゼンスの感覚がぐっと深くなっているのを感じます。

以前はどこかボンヤリしていた視界が、ピタッとクリアな領域にはまったり、意識の奥に感じる静寂の光の感覚が、より強くなっている感じはします。根源からの光が、妨げられることなく意識にクリアに感じられるのは、何とも安らかな感覚です。

こうしてみると、やはり抑圧された感情がいかに私たちの意識がプレゼンスに在ることを妨げるのかが良く分かります。

取り組みを進めれば進めるほどに、より荒いエネルギーはクリアになって、さらに繊細なレベルのエネルギーに取り組むようになります。その段階段階で、ワークの質もどんどん変化していくことでしょう。

最近感じるのは、大きな感情を解放するのも大切ですが、今この瞬間に居ることを微妙なレベルで妨げてしまう願望を抱いていることに気づくのは結構難しいということです。

では、どんな希望も期待も持たない方がいいのかというと、多分本当にプレゼンスに居たら、そういうものは無いのかもしれません。今ここにない、どんなものをも欲しないで、今ここに満ち足りているには、不足感などがかなり癒されてないと難しだろうと思います。

逆に言えば、こうした微妙なレベルの不足感や未来への不安感などが癒えたら、かなり深いプレゼンスに居られるのかもしれません。

いずれにせよ、今はどれだけ深く今この瞬間ここに在るものとともに在ることができるか、ということをテーマに日々を過ごしています。

街を歩くとき、目的地に心が泳いでいないか、お皿を洗うとき、次の作業に意識が飛んでいないか、部屋を移動するとき、心が過去の出来事や未来の予定に迷い込んでいないか。

常に前のめりの意識で過ごしてしまいがちな自分を「今ここ」に引き戻して、人に向き合うように、「今ここ」に深く向き合っています。

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憎しみの解放

リトリートから帰ってきて以降、自分の中の憎しみの感情に向き合っていますが、結構なボリュームがあるので少しずつ取り組んでいます。

そのエネルギーにフォーカスすると、身体の奥底からねじれるようなエネルギーが動き、浮上しては抜けていきます。その度に自分のバイブレーションがよりクリアになって、すっと透き通って行くような感じになるので、濃密な憎しみのエネルギーとの対比が非常に興味深く感じます。

ずっとレナードに提示されてきたテーマに、5年越しに向き合えたことが感慨深くもあり、またこれだけの時間がかかってしまったことに対して、不可解な印象もあります。

というのは、私は「憎しみ」の感情をネガティブに捉えているつもりはなかったし、それは自分の中に在っても悪くはないと思っていると認識していたからです。

「本当にそうだろうか?」と今改めて自問していますが、私が憎しみを抑圧していたのは、単にそのエネルギーのボリュームが大きすぎて大変そうだったから、というだけではない何かがあるようにも感じます。

私はプレゼンスに在りたかったし、神に帰りたいという思いがあったのは確かです。だから神への憎しみを抑圧したのかというと、それもまた説明不足な気がします。なぜなら、私は神への怒りがあることには気づいていて、それに対しては既に取り組んでいたからです。

怒りは抑圧しなかったけれど、なぜ憎しみは抑圧していたのか?自分でも不思議です。

怒りと憎しみを比べてみると、憎しみの方がより対象への攻撃性が高い気がします。怒りは自己完結できそうな気がしますが、憎しみとなると、どうしても相手を積極的に害したいという思いのベクトルがあるので、エネルギーが対象に向かうことに、どこかで躊躇していたのかもしれません。

けれど、被害者になっているときは、加害者の側面も体験しないとバランスが取れません。二元性から抜けられずに巻き込まれてしまいます。これ故に、私は神の被害者というポジションから長い間、抜け出せなかったのでしょう。

そしてもうひとつ考えられる要因が、神への憎しみを感じる時に常に浮上していた「虚しさと絶望感」のエネルギーです。これらにしっかり対処できていなかったので、憎しみを受け止めるまで至らなかったのでしょう。

今回は虚しさと絶望感を丁寧に受け止めたので、その下にある憎しみをクリアに捉えることができるようになりました。そして起こることを起こるように起こさせることを徹底して、何が起こって来るのかをひたすら観察し続けました。

「神が憎い、神が憎い」と憎しみを浮上させ続けるにしたがって、叶えられなかった願いと、その痛みが浮上してきます。これが神への不信につながっているのですが、それらを感じ、見つめながら、「あぁ、私にはこのプロセスが必要だったのだな」としみじみ思いました。

うやむやにして「仕方がない」と飲み込んでしまっていた痛みを、明確に意識に浮上させることが、これを癒していくためには必要だったのです。

だからこそ、そのためにしっかりと神を憎まなければならなかったのだと、ようやく理解しました。

神を憎みながら、私の深いところから「妻を返せ、子供を返せ!」という叫びが湧き上がってきました。理不尽に妻子を殺された過去世の男性の叫びでした。本当はこう叫びたかったけれど、当時は言えずに飲み込んでいたのでしょう。

この過去世の悲しみは随分前にも取り組んだことがありましたが、憎しみを通して出てきた悲しみは、さらにそれよりも深いものでした。

「子供に何の罪がある?」と、小さな亡骸を抱えて嘆くとき、当時に私は身体に居ることができなかったようで、まったく身体の感覚がありませんでした。その時の悲しみを今、体と心に戻って受け止めるとき、私の心身は悲しみで押しつぶされそうに感じました。

憎しみは、耐え難い痛みの責任を取り切れない時、その痛みを外側の対象に向けた感情であると私は理解していましたが、まさにその通りでした。

憎しみを十分に浮上させた奥から現れたこの痛みを、深く受け止めるために、この男性のストーリーにさらに深く入って見ました。そうでないと、表面的なところだけをなぞって終わりにしてしまいそうな気がしたからです。

この男性にとって、妻子はどんな存在だったのか。過去にさかのぼって妻と出会ったとき、結婚したとき、子供が生まれたときの気持ちを辿ってみました。

その一つ一つの場面が本当に幸せで、妻に出会えたこと、結ばれたこと、特に子供が生まれて父親になった時、その時々に男性は神に感謝していました。

その幸せが深い分、それらが失われた時、絶望も深く、今までの幸せな時間のすべてがこの辛い悲しみにつながっていたのかと思うと、現実が底知れない悪意を持っているように感じられたのです。

神は全てを与え、全てを奪う。

もはや男性にとって神は信頼できる存在ではありませんでした。

解放のプロセスはまだまだ続きます。

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内なる静寂から立ち現れるミッション

明後日28日(土)の感情解放ワークショップですが、まだお席はございますので、連休中にしっかり自分に向き合っていきたいという方は、この機会に是非どうぞ。お申込みはこちらから。

さて。今週の無料遠隔ヒーリングは、自身のミッションの生きることを妨げている痛みに向き合うことがテーマになっていますが、そもそも自分のミッションが何であるのか、自分が本当に何を求めていて何をしているときに楽しいと感じるのかすら分からないという方も少なくないと思います。

私たちの多くは、幼少期から在るがままの自分で生きることを許されなかったりした中で、自分自身の真の欲求と切り離されて生きることを選択してきているので、いざ本当のところ、自分は何を望んでいるのかと問うたとき、それがさっぱり分からない状態になっていることがよくあるのです。

そうした状態に生き辛さや限界を感じるとことから、自分自身を取り戻していく旅が始まるのですが、自身のミッションを生きるには、自分があるがままで生きることを妨げているあらゆる抑圧を解き放って行くプロセスを経なくてはなりません。

そうでないと、世間的に理想とされるモデルに自分をねじ込もうとしてしまったり、誰かが押し付けた夢を自分のものとして生きていくようなことになってしまいかねません。

「自分の本当の人生を生きる」とか「自身の真のミッションを生きる」というと、誰しもがそれを望み、そのように生きたいと願うだろうと思います。けれど一方で、そのように生きることに対する抵抗がその人自身の中に在ることもまた、見ていかなければなりません。

本当にそれを望んでいるのに、なぜ私が抵抗しなければならないのか、と思うでしょうか。

もし本当に抵抗が無いのであれば、その願いは既に叶っているはずです。叶っていないという現実は、まぎれもなくあなた自身が抵抗していることの証しと言えます。

願っているのに、抵抗するのは、今の状態でいることに対して、何らかのメリットがあり、それを今この瞬間も享受しているからです。願いを叶えたいのであれば、そのメリットを手放さなければなりませんが、あなたはこれに同意できるでしょうか?

そもそもそこにどんなメリットがあるのか、注意深く自身に問いかけてみてください。

たとえば、恋愛をして素敵なパートナーが欲しいと思っているとします。けれど、意識の深いレベルで異性に対する恐怖心や憎しみ、怒りなどを持っている場合、パートナーができれば必ずそれらに直面しなければならなくなります。

それはとても辛いことで、とても受け止め切れないと思うとき、あなたは意識・無意識的に異性を遠ざけるような状況を作ってしまうでしょう。

あるいは、自由な立場で好きなように生きていきたいと漠然と思っていたとしても、一人で生きていくことへの恐れや不安が強くある場合、そうした生き方によって引き受けなければいけない責任の重さに耐えきれず、結局誰かや何かに依存して生きていくことを選ぶかもしれません。

同様に、自身の持って生まれたギフトを活かして生きていきたいと思ったとき、そのギフトを使ったが故に味わった苦しみの記憶があれば、そのギフトを使うことを恐れるようになるでしょう。

特に、私たちのギフトというのは何生にもわたって繰り返し携わってきたことであったりすることが多いので、能力や経験値と言ったものも蓄積される一方で、必然的にそれにまつわる様々な痛みの経験も重ねていることが多々あります。

だから、今世で本当に良い形でギフトを使っていこうとしたときに、こうした痛みの記憶に向き合ってクリアにしていくプロセスを経なければいけないケースが多いのです。

私自身のスピリチュアルな能力というのも例にもれず、良いこともたくさんして来たけれど、そうでないこともたくさんありました。今浮上中の神に対する憎しみも、そうした痛みの一つです。

最も実現したい願いのところに、最も痛みを伴う傷があるということが皮肉ではありますが、実はこのようにプログラムされることで、魂はより大きな成長を遂げることになります。

私たちは楽しいことや心地良いことは大好きですが、苦しいことや辛いことは大嫌いで何としてでも避けようとしがちです。けれど、「神は光でもあり闇でもある」という言葉の通り、私たちの成長には、そのどちらもが必要なのです。

だからこそ、絶対に避けては通れないところに、最も避けたいものが配置されるのかもしれません。

光と同じように、闇もまた私たちがマスターしていくべき側面なのです。それは、忌み嫌い、封印されるべきものではないのです。

このようにして取り組みを進めていくと、グラウンディングは自然と深くなっていき、自身の存在の深奥にいます内なる神に触れていくようになります。逆に言えば、そうして行って神に触れずにいることの方が難しいといえるかもしれません。

それは、概念として信じ込まなければならないような「神」ではなく、実際にリアルに存在する「神」であり、説明の余地のないほど、はっきりと自分でそれと分かる「神」です。

自身のミッションというのは、この内なる静寂の神から立ち現れてくるものです。

メリットとデメリットの間で揺れ動くパワーゲームを自ら終わりにして行った先に、真の人生が始まります。自身の作り上げたゲームに、よくよく注意深く在りましょう。

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光と闇の本質

今回のリトリートの考察はまだまだ続いているのですが、最終日に大きな解放の糸口をつかんだとは言え、なかなかプレゼンスに居られなかったことは大きな反省点です。

レナードや他の方にも指摘されたことではありますが、期待を抱いてしまったことが私をプレゼンスから遠ざけてしまった要因です。

エゴは、「もっともっと」と「今ここ」にはない何かを求めて最もそこに居なければならない場所から私たちを誘い出します。「今ここで満ち足りて在る」というのは、まだ私には難しいことでした。

私は何かを掴まねばならないと力んでいましたが、プレゼンスに在るには、レナードがいつも言うように「Just relax!」なのです。

けれど私はまだプレゼンスを本当に信頼できてはいません。頭では分かっているけれど、魂の奥深くにはいまだ神への憎しみや恨みが残っていて、容易にプレゼンスに委ねることができないのです。

レナードに、私が「神は私を見捨てる」と訴えたとき、彼はそれを否定することなくいともあっさりと「その通りだ」と答えました。そのことで私はさらなる絶望の淵に突き落とされるのですが、確かに神は私たち人間が都合よく解釈するような、愛と光と慈悲だけの存在ではありません。

巷に溢れる「スピリチュアル的なもの」の多くは、神を愛と光の存在だと捉えています。けれど、レナードはそれではバランスを欠いている。「神は光でもあり、また闇でもある」と言います。この言葉に私は深く同意します。

私が自分自身に向き合ってきた中で触れた神は、確かに光でもあり闇でもあったし、そうでありながらそれらも超えた圧倒的な愛そのものだったからです。

自身の闇に深く深く降りていくと、常にそこには想像だにしなかった鮮烈な光と愛がありました。だから私は闇を恐れません。闇もまた、愛であることを知っているからです。

神は、私たちが目覚めていくためには、敢えて地獄の底に突き落とすようなこともするし、見捨てたり、責めたてたりされたと私たちが感じるような状況に追い込むことさえ厭いません。

人間目線で言えば非情とも言えるような仕打ちを通過させることでその人が目覚めるのなら、神に一切の妥協はありません。たとえそれで魂がボロボロになって数千年の間、闇を彷徨うことになったとしても、です。

けれど、そうしたプロセスの中で私たちはもがき苦しみながらも、あるタイミングでそこに絶え間なく流れ続けている恩寵に触れる瞬間がやってきます。

最初は微かに。やがて抗いがたい力強さでもって、それは私たちを再び神の腕の中に引き戻していきます。自分でもその力が何なのか説明もできないままに、神の呼びかけは強く、深く私たちの魂の奥底に眠っていた何かをゆっくりと育てていきます。

そのとき初めて、私たちは自身の辿ってきた気の遠くなるような深い闇が、いかに恩寵そのものであったのか、否定のしようもなく真実を肌で知るのです。

今、私は神への積年の恨みと憎しみを吐き出しながら、同時にどこか自分の深いところで神の愛という基盤にしっかりと足を付けている自分を感じています。不思議なもので、神を憎めば憎むほどに、神の懐に帰っていくのを感じているのです。

これまで私は、レナードに憎しみを浮上させられそうになっても、ショックや悲しみ、戸惑いや絶望を感じても、憎しみを意識したことは無かったかもしれません。怒りは確かにあったと思いますが、「くっそ~、レナードめ!」と口では冗談めかして言ってはいても、憎しみには触れられていませんでした。

憎しみを否定していたつもりはありません。それは自分の中に在っても問題ではないと認識していましたが、あまりに憎しみのエネルギーのボリュームが大きすぎたので、これを生きてしまっては身体がもたない、と思った部分はあったかもしれません。

実際、解放に取り組んでいても、膨大なエネルギーに身体がへとへとになります。こんなものを抱えながら、長いこと生きてきたのですね。

理不尽に妻子を殺された男性、戦争で故国を失った男性、激しい拷問の末に磔になって干からびている干物のような物体。たまに、ワークをすると自身の奥底から、まるで地の底から響いてくるようなうめき声が出てくることがよくあったのですが、なるほどそれは彼らのものでした。

神が憎い。許せない。

そう呪った彼らの痛みを、少しずつ受け止めています。

最初の頃よりは、大分彼らのいるところが明るくなってきて、透明で清浄なエネルギーが満ちてきているような感じがします。

これほど深い憎しみと恨みの底にも、恩寵が満ちているというのは、何と言う救いでしょうか。これは、頭で分かっているだけではダメです。実際に自身の闇に触れ、そこに確かにそこに在る恩寵に触れるまでは、決して「神は光であり闇でもある」ということの真意を理解できないでしょう。

ふと、このブログのタイトル「しろいはね くろいはね」の由来となったビジョンのことを思い出しました。このビジョンは、私がヒーラーとしての勉強を始めたばかりのごく初期の頃、突然見えたものでしたが、この道を歩み初めてすぐに、神の本質が示されていたのだな、と思い至りました。

プレゼンスに深く根付くには、あらゆる無意識に沈んだものを浮上させねばならない、という原則を、今改めてしみじみと感じています。このことには、この言葉で表現された以上のことが含まれており、全てのプロセスは完全に恩寵とともに在ります。

それを実際に体験するほどに、私たちはプレゼンスを深く信頼し、委ねていくことができるのでしょう。

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神の愛

遅くなりましたが、 第337弾のご感想と、4月15日感情解放ワークショップのご感想をホームページにアップしましたので、参考になさってみて下さい。

さて。23日の夜にレナードの清里リトリートから帰ってきて、じっくりと余韻を味わっています。毎回参加していても、その都度違った気づきと学び、そして宿題をもらって帰って来るのが、私にとってはかけがえのない機会となっています。

そして、そこに参加されている方々、新しい出会いはもちろんのこと、特に何年も前からともにレナードの教えを学んでいる方たちにお会いするのは、私の中では特別な意味合いを持っているのだな、ということを今回改めて感じました。

多分、他の方も同じように感じていらっしゃる方は多いのではないかと思います。というのは、決して楽なことばかりではないこの教えを真摯に実践されている方々は、教えの素晴らしさも道の険しさも良く分かっているので、互いに多くを語らなくても、プレゼンスという共通の認識の上で通じ合うものがあるような気がするからです。

私にはそうした皆さんが、それぞれのフィールドの上で勇敢に戦う戦士のように見えます。

そして今回のリトリートでは、私の中に埋もれていた胸をえぐられるような感情がたくさん浮上し、解放されました。

4日間のリトリート中、3日が終わった段階で、私は自身のプレゼンスがなかなか深まっていないことに焦りを感じていました。

とてもコミットして参加したはずだったのに、周囲の方々がとても深いプレゼンスを体験されている様子を見るにつけ、一体私はこれまで何をして来たんだろうと情けなく思えて仕方ありませんでした。

そうして迎えた最終日に、私はいかなるものをも受け止めることを心の中でコミットして、レナードにガイダンスを求めました。すると、彼は私の中に在る、彼と神への憎しみを浮上させました。これまでにも繰り返し取り組んできたテーマでしたが、まだ憎しみは深く私の心に残っていたのです。

振り返ってみれば、これまでのリトリートや、それ以前に行われていた週末ワークショップの時代から、彼は何度も私の中のこの憎しみを浮上させようとしてきていました。

みんなの前で極めて厳しい言葉を浴びせられたことも一度ならずあったし、他の人には容易に与えられるものが、私には決して与えられないと感じたことも多々ありました。

そのようにされても、私の中で、彼への信頼が揺らぐことは一度もありませんでしたが、彼もまた、その姿勢がブレたことは一度もありませんでした。

彼は自分が相手から好かれようが憎まれようが、そんなところには微塵も関心がなく、あるのはただその人の魂の目覚めのみです。

彼はリトリートで、「私を憎みなさい」と言いました。埋もれた憎しみは健全ではありません。だから浮上させ、表現されなければなりません。

たとえそうであったとしても、「私を憎みなさい」という言葉は、普通の人がそうやすやすと言える言葉ではないでしょう。全く動じることもなく、そう言えるレナードはやはりすごいな、とどこかで感心しながら、私は自分の中の憎しみを浮上させました。

その瞬間から、待っていたかのように胸をえぐるような痛みが深く、胸やみぞおちから下腹部へと降りて行くのが分かりました。と同時に体が震え、涙がとめどなく流れてきました。

特に神への憎しみを感じるとき、私の中でそれはすぐにどうしようもない虚しさに変化していきます。私がどんなに憎もうが嘆こうが叫ぼうが、神は何の痛みも感じない。そのことに深い虚しさと無力感を感じるのです。

これまでは、これが出てくると途中でそのストーリーを信じてしまって、途中で止めていましたが、このときはこれもそのまま感じれば良かったのか、と気づくことができたので、湧き上がるがままに虚しさを感じて行きました。

憎しみと虚しさと無力感、悲しみに打ちひしがれながら、心の中でずっと「痛い、痛い、痛い」とつぶやいていました。私の魂はこれを受け止めたくなくて、もう何百年、何千年も逃げ続けてきたのでしょう。

けれど、今の私はこれだけのものが出てきても、逃げることなく受け止めることができます。やっと、このタイミングで準備ができたのでした。

これまで私は、レナードから「あなたは準備ができていない」と言われたことが何度もあったのですが、その時私は、何をどう準備すればいいのかさっぱりわかりませんでした。自分なりに準備して参加しているはずなのに、その言葉は心外だったし、かと言ってその準備についてそれ以上語られることはありませんでした。

だから私は暗中模索するように、その時自分ができることをどうにかしてやる、ということをコツコツ積み重ねて来るしかなかったのです。けれどそれがようやくこのタイミングで実を結んだということのようです。

あるヨギの自叙伝」の中で、ヨガナンダがグルのシュリ・ユクテスワの余りにも厳しい指導を、麻酔無しで歯を抜かれるがごとく、というような表現をしていたと記憶していますが(正確な表現ではなかったかもしれません)、グルの指導は、時にエゴにとってはそれほどまでに熾烈なものになり得るのです。

けれど、それはグルのエゴから来るものではなく、完全に恩寵です。

今、こうして長年の彼の厳しい態度の意味を理解するにつけ、そこに計り知れない愛と恩寵を思わずにはいられません。

神の愛は、決して私たちが望むような形ばかりで表れるわけではないし、一見正反対と思えるような厳しい姿でやってくることもあります。その計らいに私たちが気づけるかどうかは、ひとえに私たちがどれだけ実践的な努力をしたか。そして、魂が成熟したかにかかっています。

今回のリトリートは、その最中よりも終わってからの方がジワジワとプレゼンスが深まっているように感じます。憎しみの解放はまだ続いていて、どこまで続くのかと思えるほどに後から後から湧き出してきます。

けれど、終わりを思うことなく、出るままに出させてあげようと思います。そして噴出する恨みの中でも、不思議と静寂のスペースが広がっているのがはっきりと感じられます。これは今までになかった感覚かもしれません。

プレゼンスの種は、私の中でしっかりと育ってくれていた。そう感じた瞬間でした。

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第339弾 無料遠隔ヒーリング

毎週月曜日は恒例の無料遠隔ヒーリングのテーマの設定日です。 第337弾のご感想と、4月15日感情解放ワークショップのご感想のアップは、都合により明日になります。すみませんが、どうぞご了承くださいませ。

さて。今年3月下旬から起こったミッションに関する気づきによって、近頃は自分自身のミッションを深く受け止め、それを生きていこうというコミットメントが強くなっています。

40もいくぶん過ぎた年になって、ようやくそれを知り、受け入れられるようになったのだなぁと感慨深く思います。

というのも、私は中学の卒業文集で、確かに自分の使命を見つけ出してそれを全うしたいというようなことを書いていたからです。

あれからウン十年。(綾小路きみまろみたいですね(^^;)色々あったけれど、人生を諦めずにここまでたどり着けて良かったなぁと思います。

この年齢が早かったのか遅かったのかと言われれば、私にとってはまさにベストのタイミングであり、これ以上早い時期も考えられなかったし、やっぱりそれだけの年月が必要だったと思います。

機は自ずから熟すもの。まさにそう感じます。

自分でどうこうしようとしてどうにかなるもんじゃない。ただやってきたものを在るがままに受け止めながら生きていったとき、最高最善になるようになるのだと思います。

そんなことを考えていたら、ある言葉を見つけました。

以前読んだダン・ミルマンの「聖なる旅―ピースフル・ウォリアー」(徳間書店刊)の一節をメモしたものをスマホに入れていたのですが、たまたま読み返してみたら、今にぴったりの言葉でした。

エゴが神の腕の中に溶け込んだとき、心は神の意思に溶け込みます。自分の人生をコントロールしたり、ある特別な方向にゆかせようとしなくなると、あなたは生きるのをやめて、生かされ始めます。あなたはより大きな目的、『より大きな絵』と合体するのです。あなたは道になります。道から離れることによって。

これを読んだのは去年の初めごろでしたが、その時は「頭では分かる。けれどそれをどうやって実践したらいいのか、わからない」という感じでした。

が、今ならこれが良く分かります。1年前の私になかったものが、今の私にはあるからです。

それは、これまでの積み重ねによって神と和解しグルと和解したことで、自身の命の源に真っ直ぐに向き合う覚悟が定まったこと、つまりコミットメントです。

このことで、私の中の奥深くでずれていた何かがピッタリとはまり、ぐっと存在の根が深くなった実感が自分でもあります。その状態になって初めて、私にとってミッションとは何なのかがようやく分かったのです。

これまでの歩みのどれ一つが欠けても、ここにはたどり着けなかったでしょう。すべてのパズルのピースが必要だったのであり、今、それらが完璧に美しい絵の一部であることが分かります。

それまで、私にとってミッションとは自分を犠牲にして苦しみながら果たさねばならないもの、決して報われることのない虚しい作業、自分の無価値感を埋めるための安っぽいスローガン、幻想という名のストーリーといった、およそ関わりたくないものというイメージのオンパレードでした。

けれど、今は違います。

ミッションとは、ダン・ミルマンが美しく格調高い言葉によって表現した『より大きな絵』の中に溶け込むことであり、それは一部の限られた人のための特別なものなのではなくて、私たちの誰もが本当に自分自身を生きたときの在り方なのです。

大いなるものに委ねようとするとき、それに対するトラウマのような体験があっては、サレンダー(明け渡し)は不可能です。だから私は繰り返し、神の名によって魂が味わってきた過酷な苦しみに向き合う道のりが必要でした。

そしてそれができるようになるために、あらゆる感情を受け止められる心の筋肉や洞察力などが育っていなければなりませんでした。

これらを準備するため、魂は実に周到に私の人生を導いてきたのだと、今振り返るとその過不足ない完璧なシナリオに感嘆するばかりです。

私たちのすべての歩みは、自身の真のミッションを生きるように導かれています。だから、今この瞬間が苦しくとも、自分も他者も責めずにその場で自分にできる最善を尽くすことです。

そこで身に着けなければいけないことがあるから、それを体験しているのです。その目標が達成されれば、ステージは自ずから変わっていくでしょう。だから、今を嘆くことはありません。願わくば、そこで拾えるものは全部拾うくらいの気持ちを持てれば幸いです。

というわけで今週のテーマはこちら。

真に魂のミッションを生きるのを妨げているあらゆる痛みを解放するよう、最高最善に働きかける

参加される方は、「無料遠隔ヒーリングの受け方」ご覧になり、 ご理解のうえ4月26日(水)17:00までにメールまたはメールフォームにてお申し込み下さい。 同日20:00より順次働きかけを行っていきます。

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真理の法

仕事柄、色々な方から様々なご相談を受けることは多いのですが、最近、私の中ではかなり古いパターンのテーマをトリガーする出来事が立て続けに起こったので、これはまた注意して取り組まなければ、と思って見ています。

ヒーラーになりたての頃、様々なヒーリングのエネルギーやテクニックを使ってできることがたくさんあることに、なんでもできるんだ!ととても安易に考えていたことを覚えています。

そんな風に思えたのは最初だけで、やっていく内にとてもそんな簡単なものではないのだな、ということはすぐに分かったのですが、それでもできることはまだまだあったので、おこがましくも、色々な人を「救ってあげたい」と思っていたことは確かです。

ヒーラーにとって、こうした思いは色々な意味で、非常に注意を要する思考になります。

なぜかというと、「救ってあげたい」と思うと「救ってほしい人」が引き寄せられてくるからです。けれど、本当のところ、ヒーラーが他者を救うなど、できることではないのです。

クライアントさんが良くなっていくのは、ヒーラーの力なのではなく、その方自身の内からやってくる力によってそうなるのであって、そこを取り違えてしまうと、エゴのパワーの押しつけて、その人が内なる力につながっていく機会を奪った上に、グロテスクな共依存関係を構築してしまいます。

そのようなことはクライアントさんにとって真の救いにならないばかりか、「百害あって一利なし」だし、自分もボロボロになっていきます。

幸いにして私はレナードに出会うことでそうした勘違いから脱する機会を得ましたが、今でも、その人が本来引き受ける学びの機会を奪っていないか、私のサポートはその人自身の内なる力につながっていくために働いているのかと、日々問うています。

そんな中で起こったある二つの出来事は、私がまだクリアできていない要素を見事に突いてきていると感じました。

仕事の上では、私もかなりその辺りの境界線は引けるようになってきたのではないかと思うのですが、友人など、よりプライベートな関係において、曖昧になっている部分があるようなのです。ワキが甘いんですね。

ヒーラーという仕事は、私にとって単なる仕事ではなく、私というアイデンティティと不可分に結びついている「在り方」そのものです。故に、ここから先は仕事で、ここまではプライベートね!という線を引くことはなかなかに難しいのです。

その状態で人と関わっていくと、無意識なのですが、気が付くとみんなの心のケアやサポートをするような状況になっていたり、こちらから何か水を向けているわけではないのですが、相談を持ち掛けられるということがよくあります。

簡単にお話を聞いて、一言二言アドバイスを差し上げることでその方が「そっか~♪」と気づきを得るというくらいだったら何の問題もないのですが、聞いている内にどんどん深いところに引き込まれて行くケースもあって、そうなると、「ここから先は仕事になるよ」というのを言うタイミングを逃してしまうこともあります。

相手の方も、その辺り分かっていてあえて曖昧にしているのか、夢中になりすぎていて一線を越えてくるのか、そのどちらなのかもしれませんが、なかなかに切り分けるのは難しいことがあります。

まぁそれは私の隙ゆえの言い訳なのですが、エネルギー交換のないこうした関わり合いは、終わった途端にひどく消耗する感じと、モヤモヤした感情が残ります。

決してその方を責めているつもりはないこと、あくまでこれは私のストーリーであることをお断りしたうえで、私の中のどんな在り方がこの状況を引き寄せているのか、今一度しっかりと向き合っていかなければならないと思っています。

というのは、これは私だけではなく、相手の方にとっても健康的な状況ではないからです。

ずるずるとこのような状態を引きずってしまった結果、その人が真に自身の内なるパワーにつながっていく機会を奪っていたのかもしれない、と思うこともありました。これは、私が最も嫌う在り方の一つです。

なぜ、私はバウンダリー(境界線)を保つことができなかったのか。

やはり、「助けてあげたい、役に立つことがあるのなら」と、表面的なところだけを見て引きずられてしまったということなのでしょう。そしてまたそこには、「良い人でありたい、悪く思われたくない」という、打算もあったことは確かです。

つまり、私は取引をしていたことになります。いわゆる、パワーゲームですね。「あなたの欲しいものをあげるから、私を大事に思ってね」という取引です。

レナードがすごいな~と思うのは、相手がどう思うかなんてことにはまったくお構いなしで、意識の一片もそんなところには無いというところです。彼が全幅の信頼を寄せ、コミットメントしているのはプレゼンスのみ。

何かの本で、「覚者は人の法には従わない。ただ真理の法にのみ従う」という言葉があったのですが、まさにその通りです。

相手は困っているし可哀想だから、というのはあくまでエゴの見たストーリーであって、私はもっと深いところに流れる「真理の法」を見て、それに従えるようにならなければいけないのでしょう。

もっと、根本的に「真理の法」に溶け込んでいけるように。そんなことを思った出来事でした。

 

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スケープゴート

感情解放ワークで自分自身に向き合っていると、しばしば被害者と加害者、責任の逃避と転嫁というテーマを見かけます。人生のあらゆる停滞と困難は、恐らくこのテーマと無関係ということはあり得ないだろうと思うほどに、ポピュラーなテーマです。

私たちは自分が関係ないところであれば、被害者も加害者もない方がいいとか思うのですが、いざ自分がその立場になってみると、途端にそのニュートラルで当たり前の見え方は失われ、苦しみに満ちたストーリーの中での役割にしっかりとしがみついてしまうのです。

苦しいのにしがみつく?と不思議に思われるかもしれませんが、深いレベルを読み解いていくと、被害者はある部分で加害者を必要とし、加害者は被害者を必要としているという、摩訶不思議な心理構造があるのです。

これは、表層意識では自覚は無いことが多いので、そう言われても気づかない方もあるでしょう。けれど両者はどちらも片方だけれは成り立たず、表裏の関係であることは確かです。

どちらも、本来自分で責任を取らなければいけない不快な感情や感覚の責任を、どうにか他者に転嫁して、自分が楽でありたい、というところで引き合っているのです。

そして、そうすることの後ろめたさから逃れるために、自分や周囲を納得させるための「正当な理由」を求めます。

実際のところ、そんなものは何の役にも立たないのですが、それがあると何となく自分のズルさが隠れるような気になるので、せっせとより強力な「正当性」をコレクションし、水戸光圀公の印籠のごとく、自分がまずい立場になった時にど~んと打ち出してきます。

周囲の人は、いくらそんなものがあろうとも、その人のずるい本質は筒抜けでしょう。バレていないと思うのは当事者だけで、この滑稽な喜劇の中で踊っているのです。

この辛さは自分のせいじゃない!と思うことで、一時、その辛さから逃れることができるように感じます。だから、誰かや何かのせいにできるように、私たちは「スケープゴート」が必要なのです。

スケープゴートの説明はこちら

自分がこんなに不幸なのは親のせいだ!パートナーが私のことを顧みてくれないからだ!学歴が無いせいだ!自分の身長が低いせいだ!あの時あの人がこんなことをしたから!だから私は今こんな思いをしている!

ありとあらゆるものがスケープゴートになり得ます。時にその対象が自分自身であることもあるので、なかなかわかりにくく複雑になっていることもあります。

けれど、「~のせいで」と思ったときは、間違いなく自分の受け止め難い気持ちの責任を、それに転嫁しています。

そのことを認めることができるかどうかが、この「苦しくも居心地のいい地獄」から脱出できるかどうかの分かれ目になります。

脱出したいのなら、今の居心地の良さを手放さなければなりません。つまり、誰かや何かに転嫁していた苦しみを、転嫁しないで自分で受け止めるということです。

この在り方が定着すると、転嫁している方がずっと居心地が悪く、とても居られなくなってしまうので、自然に自分で責任を取る在り方を選ぶようになっていくのですが、長く慣れ親しんだ「転嫁による逃避」の構造を改めるには、最初はかなり葛藤があるでしょう。

苦しい状況について、誰のせいにもできないし、どんなものも責められないという場面をイメージしてみてください。のしかかるような重苦しさや閉塞感、耐え難い不快感が一気にやってこないでしょうか。

それこそが転嫁によって逃れていた、本来自分が受け止めるべきエネルギーなのです。

誰かに責任転嫁をされるととても不快に感じるのは、これらが押し付けられていることを確かに心と体で感じるからです。

私のせいじゃないのに私のせいにされた!という経験をするとき、同じ構図のことを自分自身もどこかで必ずやっています。

だから、腹が立った時が気付きのチャンスと思って、自分が何をしているのか、よくよく相手という鏡を覗いてみてください。見る目、聞く耳を持って取り組めば、必ず気づきはやってきます。

ズルく醜い自分に直面することは、とても勇気のいることだと思います。

誰だって清く正しく美しい自分であってほしいものですから、それとは正反対の姿なんて、見たくはないのです。

責任転嫁をしているということは、自分も実は加害者であることを認めることになります。

人は、被害者の痛みを受け止めるよりも、加害者としての痛みを受け止める方が実は難しい傾向があるようで、「私はこんなことをコイツにされたんだ!」と嘆くことはほとんどの人は簡単にできますが、「私はこんなことを相手にしてしまった!」という動揺や罪悪感などを受け止めるのは、それほど簡単ではありません。

けれど、このことがしかとできる在り方が確立されて行くと、あなたは被害者と加害者の二元性を超えて、その葛藤を味わうことがなくなっていきます。

被害者と加害者しかいなかった世界が、もっと違うものになって見えてくるのです。

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自分をうまく表現できないのはなぜか

自分の気持ちをうまく表現できないという方は結構いらっしゃるのではないかと思うのですが、なぜうまく表現できないのか、その原因について、今日は書いてみたいと思います。

まず、自分の気持ちを伝えることにもどかしい思いをしている方のほとんどに、おそらく当てはまるのは、素直な気持ちを伝えたときに、否定や拒絶されたり、責められたり、あるいは自分の思いを表現したことで誰かが辛い思いをしたなどの、心に痛みを感じた経験を持っているということです。

これらの体験は、幼少期に体験されていることが多いでしょう。ということは、つまり親との関係が深く影響していることがしばしばあります。

何をやっても、いつも親は私のことを否定した、決して認めてくれはしなかったし、褒めてもくれなかった。そんな経験があると、在るがままの自分を相手に見せることをためらうようになります。

そして、相手の様子を伺いながら、相手が気に入るような自分になるように、そういう側面だけしか出せなくなっていきます。

その傾向が激しくなると、どんな自分も出せなくなるので、自分が本当は何を感じているのか、何が好きで何がイヤなのかといった、自身の真実から切り離され、全く分からなくなっていってしまうのます。

そういう状態のまま、大人になっていざ自分の気持や考えを表現しなければいけない状況になった時、とても混乱します。それを何とかして収めるために、様々な外の情報など、指針となりそうなものを手当たり次第に求めるようになったりします。

本来は自分の内側からやってくるはずの自然なサインが、全く機能しないので、そうせざるを得なくなっているのですね。

こうなると、恋愛も結婚も仕事も夢も、自分の気持ちとつながれないまま、巷に溢れる「理想的なテンプレート」をかき集めて、世間体の良い自分の輪郭を作り上げるような作業に必死になります。

けれど、結局それも自分の真実からはかけ離れているので、何も響かないしどこかフィットしない違和感を感じて、生き生きとした現実を生きるパワーも湧いて来ないのです。

このように、在るがままの自分を表現できないことの苦しみは、一言では言い表せないものです。

本当は自分を表現したいという思いを熱く持っているにもかかわらず、表現しようとすると、かつて味わった心の痛みがその瞬間に意識、無意識的に浮上してきて、「どうせ言っても分かってもらえない」などといった諦めという苦痛回避の働きによって、蓋をされてしまうのです。

それを無数に繰り返してきて、失望はやがて絶望になり、悲しみや無力感、無価値感、閉塞感などが心を覆いつくすようになります。

このようにして、自分の気持ちをうまく表現できないという状態が形成されて行くのです。

これは、表面的にとても活発でおしゃべりな人であったとしても、起こりえます。どうでもいいことは良く表現できるけれど、こと自身の真実に関してはガッチリ壁を作ってガードしているというケースもあるからです。

こういう場合、自分が壁を作っているということに気づいていない人もないわけではありません。というのは、自己イメージは「活発で明るく、みんなと仲良くしている自分」だったりすると、「自分との関係」については全く意識が向かないので、気づけないのです。

というか、「気づきたくない」という方が真実に近いかもしれません。

気づいてしまったら辛すぎるので、触れたくないわけです。

こうした状況を変えていこうとするときには、どうしても自分を表現することで傷ついたその気持ちを受け止めていくプロセスを通り抜けていかなければなりません。

そのプロセスの前で逡巡している時は辛いですが、傷ついた自分の気持ちを本当に迎えに行けると、とても心は安らかで、ホッと安堵した感覚が生まれます。

それは、その側に求めていたどんなものからも得られなかった安堵感でしょう。

ここが癒されると、少しずつ自分の真実を取り戻し、それを表現できるようになっていきます。

長くかかって形成された心の構造は、一朝一夕には変わらないかもしれませんが、自分の真実を取り戻すこの素晴らしいプロセスを慈しむことができれば、変化していく自分をもっと大切にできるようになるし、同時に、周囲からも愛され、信頼される自分になっていくでしょう。

どうぞ、自身の真実に出合う旅を、焦りながらさっさと済ませようとするのではなく、瞬間瞬間を楽しんでみてください。

みなさまの歩みが、愛と気づきに満ちたものでありますように。

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