霊性

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内なる静寂から立ち現れるミッション

明後日28日(土)の感情解放ワークショップですが、まだお席はございますので、連休中にしっかり自分に向き合っていきたいという方は、この機会に是非どうぞ。お申込みはこちらから。

さて。今週の無料遠隔ヒーリングは、自身のミッションの生きることを妨げている痛みに向き合うことがテーマになっていますが、そもそも自分のミッションが何であるのか、自分が本当に何を求めていて何をしているときに楽しいと感じるのかすら分からないという方も少なくないと思います。

私たちの多くは、幼少期から在るがままの自分で生きることを許されなかったりした中で、自分自身の真の欲求と切り離されて生きることを選択してきているので、いざ本当のところ、自分は何を望んでいるのかと問うたとき、それがさっぱり分からない状態になっていることがよくあるのです。

そうした状態に生き辛さや限界を感じるとことから、自分自身を取り戻していく旅が始まるのですが、自身のミッションを生きるには、自分があるがままで生きることを妨げているあらゆる抑圧を解き放って行くプロセスを経なくてはなりません。

そうでないと、世間的に理想とされるモデルに自分をねじ込もうとしてしまったり、誰かが押し付けた夢を自分のものとして生きていくようなことになってしまいかねません。

「自分の本当の人生を生きる」とか「自身の真のミッションを生きる」というと、誰しもがそれを望み、そのように生きたいと願うだろうと思います。けれど一方で、そのように生きることに対する抵抗がその人自身の中に在ることもまた、見ていかなければなりません。

本当にそれを望んでいるのに、なぜ私が抵抗しなければならないのか、と思うでしょうか。

もし本当に抵抗が無いのであれば、その願いは既に叶っているはずです。叶っていないという現実は、まぎれもなくあなた自身が抵抗していることの証しと言えます。

願っているのに、抵抗するのは、今の状態でいることに対して、何らかのメリットがあり、それを今この瞬間も享受しているからです。願いを叶えたいのであれば、そのメリットを手放さなければなりませんが、あなたはこれに同意できるでしょうか?

そもそもそこにどんなメリットがあるのか、注意深く自身に問いかけてみてください。

たとえば、恋愛をして素敵なパートナーが欲しいと思っているとします。けれど、意識の深いレベルで異性に対する恐怖心や憎しみ、怒りなどを持っている場合、パートナーができれば必ずそれらに直面しなければならなくなります。

それはとても辛いことで、とても受け止め切れないと思うとき、あなたは意識・無意識的に異性を遠ざけるような状況を作ってしまうでしょう。

あるいは、自由な立場で好きなように生きていきたいと漠然と思っていたとしても、一人で生きていくことへの恐れや不安が強くある場合、そうした生き方によって引き受けなければいけない責任の重さに耐えきれず、結局誰かや何かに依存して生きていくことを選ぶかもしれません。

同様に、自身の持って生まれたギフトを活かして生きていきたいと思ったとき、そのギフトを使ったが故に味わった苦しみの記憶があれば、そのギフトを使うことを恐れるようになるでしょう。

特に、私たちのギフトというのは何生にもわたって繰り返し携わってきたことであったりすることが多いので、能力や経験値と言ったものも蓄積される一方で、必然的にそれにまつわる様々な痛みの経験も重ねていることが多々あります。

だから、今世で本当に良い形でギフトを使っていこうとしたときに、こうした痛みの記憶に向き合ってクリアにしていくプロセスを経なければいけないケースが多いのです。

私自身のスピリチュアルな能力というのも例にもれず、良いこともたくさんして来たけれど、そうでないこともたくさんありました。今浮上中の神に対する憎しみも、そうした痛みの一つです。

最も実現したい願いのところに、最も痛みを伴う傷があるということが皮肉ではありますが、実はこのようにプログラムされることで、魂はより大きな成長を遂げることになります。

私たちは楽しいことや心地良いことは大好きですが、苦しいことや辛いことは大嫌いで何としてでも避けようとしがちです。けれど、「神は光でもあり闇でもある」という言葉の通り、私たちの成長には、そのどちらもが必要なのです。

だからこそ、絶対に避けては通れないところに、最も避けたいものが配置されるのかもしれません。

光と同じように、闇もまた私たちがマスターしていくべき側面なのです。それは、忌み嫌い、封印されるべきものではないのです。

このようにして取り組みを進めていくと、グラウンディングは自然と深くなっていき、自身の存在の深奥にいます内なる神に触れていくようになります。逆に言えば、そうして行って神に触れずにいることの方が難しいといえるかもしれません。

それは、概念として信じ込まなければならないような「神」ではなく、実際にリアルに存在する「神」であり、説明の余地のないほど、はっきりと自分でそれと分かる「神」です。

自身のミッションというのは、この内なる静寂の神から立ち現れてくるものです。

メリットとデメリットの間で揺れ動くパワーゲームを自ら終わりにして行った先に、真の人生が始まります。自身の作り上げたゲームに、よくよく注意深く在りましょう。

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光と闇の本質

今回のリトリートの考察はまだまだ続いているのですが、最終日に大きな解放の糸口をつかんだとは言え、なかなかプレゼンスに居られなかったことは大きな反省点です。

レナードや他の方にも指摘されたことではありますが、期待を抱いてしまったことが私をプレゼンスから遠ざけてしまった要因です。

エゴは、「もっともっと」と「今ここ」にはない何かを求めて最もそこに居なければならない場所から私たちを誘い出します。「今ここで満ち足りて在る」というのは、まだ私には難しいことでした。

私は何かを掴まねばならないと力んでいましたが、プレゼンスに在るには、レナードがいつも言うように「Just relax!」なのです。

けれど私はまだプレゼンスを本当に信頼できてはいません。頭では分かっているけれど、魂の奥深くにはいまだ神への憎しみや恨みが残っていて、容易にプレゼンスに委ねることができないのです。

レナードに、私が「神は私を見捨てる」と訴えたとき、彼はそれを否定することなくいともあっさりと「その通りだ」と答えました。そのことで私はさらなる絶望の淵に突き落とされるのですが、確かに神は私たち人間が都合よく解釈するような、愛と光と慈悲だけの存在ではありません。

巷に溢れる「スピリチュアル的なもの」の多くは、神を愛と光の存在だと捉えています。けれど、レナードはそれではバランスを欠いている。「神は光でもあり、また闇でもある」と言います。この言葉に私は深く同意します。

私が自分自身に向き合ってきた中で触れた神は、確かに光でもあり闇でもあったし、そうでありながらそれらも超えた圧倒的な愛そのものだったからです。

自身の闇に深く深く降りていくと、常にそこには想像だにしなかった鮮烈な光と愛がありました。だから私は闇を恐れません。闇もまた、愛であることを知っているからです。

神は、私たちが目覚めていくためには、敢えて地獄の底に突き落とすようなこともするし、見捨てたり、責めたてたりされたと私たちが感じるような状況に追い込むことさえ厭いません。

人間目線で言えば非情とも言えるような仕打ちを通過させることでその人が目覚めるのなら、神に一切の妥協はありません。たとえそれで魂がボロボロになって数千年の間、闇を彷徨うことになったとしても、です。

けれど、そうしたプロセスの中で私たちはもがき苦しみながらも、あるタイミングでそこに絶え間なく流れ続けている恩寵に触れる瞬間がやってきます。

最初は微かに。やがて抗いがたい力強さでもって、それは私たちを再び神の腕の中に引き戻していきます。自分でもその力が何なのか説明もできないままに、神の呼びかけは強く、深く私たちの魂の奥底に眠っていた何かをゆっくりと育てていきます。

そのとき初めて、私たちは自身の辿ってきた気の遠くなるような深い闇が、いかに恩寵そのものであったのか、否定のしようもなく真実を肌で知るのです。

今、私は神への積年の恨みと憎しみを吐き出しながら、同時にどこか自分の深いところで神の愛という基盤にしっかりと足を付けている自分を感じています。不思議なもので、神を憎めば憎むほどに、神の懐に帰っていくのを感じているのです。

これまで私は、レナードに憎しみを浮上させられそうになっても、ショックや悲しみ、戸惑いや絶望を感じても、憎しみを意識したことは無かったかもしれません。怒りは確かにあったと思いますが、「くっそ~、レナードめ!」と口では冗談めかして言ってはいても、憎しみには触れられていませんでした。

憎しみを否定していたつもりはありません。それは自分の中に在っても問題ではないと認識していましたが、あまりに憎しみのエネルギーのボリュームが大きすぎたので、これを生きてしまっては身体がもたない、と思った部分はあったかもしれません。

実際、解放に取り組んでいても、膨大なエネルギーに身体がへとへとになります。こんなものを抱えながら、長いこと生きてきたのですね。

理不尽に妻子を殺された男性、戦争で故国を失った男性、激しい拷問の末に磔になって干からびている干物のような物体。たまに、ワークをすると自身の奥底から、まるで地の底から響いてくるようなうめき声が出てくることがよくあったのですが、なるほどそれは彼らのものでした。

神が憎い。許せない。

そう呪った彼らの痛みを、少しずつ受け止めています。

最初の頃よりは、大分彼らのいるところが明るくなってきて、透明で清浄なエネルギーが満ちてきているような感じがします。

これほど深い憎しみと恨みの底にも、恩寵が満ちているというのは、何と言う救いでしょうか。これは、頭で分かっているだけではダメです。実際に自身の闇に触れ、そこに確かにそこに在る恩寵に触れるまでは、決して「神は光であり闇でもある」ということの真意を理解できないでしょう。

ふと、このブログのタイトル「しろいはね くろいはね」の由来となったビジョンのことを思い出しました。このビジョンは、私がヒーラーとしての勉強を始めたばかりのごく初期の頃、突然見えたものでしたが、この道を歩み初めてすぐに、神の本質が示されていたのだな、と思い至りました。

プレゼンスに深く根付くには、あらゆる無意識に沈んだものを浮上させねばならない、という原則を、今改めてしみじみと感じています。このことには、この言葉で表現された以上のことが含まれており、全てのプロセスは完全に恩寵とともに在ります。

それを実際に体験するほどに、私たちはプレゼンスを深く信頼し、委ねていくことができるのでしょう。

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感情解放ワークと霊性の旅

感情解放のワークで、みなさんがしばしばつまづく場面があります。それは、感情に向き合ったときに、新たに別の感情が浮上したことに気づかず、それに飲み込まれてマインドに入ってしまっているケースと、どうしても受け入れられない選択を前に、ガッチリとはまってしまっているケースです。

前者は、ワークをしていると非常によくあるパターンで、たとえば、深い悲しみを受け止めようと向かっているときに、それに触れてしまうことを恐れる気持ちが出てくることがあります。

本当にあの悲しみを生きてしまったら、自分は泣き崩れてしまう、立っていられない、日常生活が送れなくなってしまう、それは困るし、そんなことになるのは恐ろし過ぎる、という具合です。

こういう場合、さらに掘り下げていきます。

泣き崩れ、立っていられなくなって日常生活が送れなくなってしまったとしたら、それから自分はどうなるだろうか?と問うて行くのです。すると、廃人のようになって、抜け殻のような人生を送るとか、悲しみのあまり死んでしまうなどといった答えが返ってくることがあります。

人によって様々なストーリーが出てくるのですが、実はこの「きっとこうなってしまうだろう」とイメージで出てきたストーリーというのは、過去世で体験していることだったりするのです。

つまり、その人は過去世でとても悲しい体験をして、それに耐えきれずに抜け殻のように生きた人生や、死んでしまった人生を既に体験しているということなのです。

実際にここまで掘り下げると、確かにそういうことがあったような気がする、という感覚を多かれ少なかれ身体と心で確信する方が多いです。

魂の記憶にそういうものがあるので、その人は深く悲しむことを恐れているのです。また廃人のようになったり、死んでしまってはいけないと、無意識にもブレーキをきつく踏んでいるわけですね。

なぜ自分がそこまで悲しむことを恐れているのかという理由が分かると、迎えに行くべき自分自身のカケラが明確になります。すると、大抵はその打ちひしがれている自分を迎えに行けるようになります。

原因を知るということは、そういう意味でも大切なことなのですね。

私たちは、過去世の記憶をしばしば今世に引き継いで、その課題を無意識の内に受け取ってもがいていることがよくあります。

無念さや悲しみ、怒りや恨み、惨めさや絶望の中で亡くなった場合、死の瞬間に抱いていた感情を種として魂の中に持って行きます。そして、その種を持った魂が、次の人生を始めるのです。

肉体は新しくなり、すっかり境遇の違った人生が始まりますが、魂の中に在る未完了の感情の種は、それを味わった人生の記憶とともに、時間を止めてそれが癒されるまで、ずっとそこにあります。

どれだけそれを否定し、拒絶しようとも、その未完了のエネルギーは完了を求めて私たちの人生に表れ続けるだろうと思います。

バーナテッド・ロバーツアジャシャンティジム・ドリーヴァーなど様々な目覚めを体験した人たちの本を読んでみると、目覚めた後もなお、離婚や病気、財産の喪失、裏切りなど様々な厳しい状況を経験している生々しい記述を目にすることがあるのですが、それはきっと、未完了のエネルギーが完了に至る動きの表れなのでしょう。

ワークの中で、どうしても受け入れられない選択を前にガッチリとブレーキを踏んでしまうときも、過去世での体験と無縁ではないと思います。

なぜなら、過去に何も痛みを伴う体験が無いのだとしたら、そこまで拒絶する理由はないからです。私たちは、全く未経験の、知らない体験をそこまで恐れることはあり得ません。ラマナ・マハルシが「恐れは過去の痛みの体験の記憶」という通りです。

そういう状態の時、ある程度はそれに対する恐れを和らげるテクニックを使ってより受け入れやすい状態にもっていくことはできますが、最終的なところは、その方自身の選択になります。

魂が何度も同じようなテーマを繰り返すのも、きっとその人生では未完了のエネルギーが完了に至る選択をすることができなかったのでしょう。

この「どうしても越えられない壁」を越えていくときに、人生や世界をより深いレベルで見ていく霊性が、深く成熟していることが大切なカギになっているような気がします。

どうしても表面的なレベルや人間目線の善悪のジャッジメントに縛られていては、見えてこないものがあり、私たちの魂は、そうした自身を縛る様々な制約を超えて自由になることを望んでいるような気がします。

その願いを実現していくプロセスで、私たちは必ず、自ら神に触れていく体験をするでしょう。それなくして、本当に人生を宇宙に委ねることはできないし、本当に自身の命を生き切ることはできないと思うからです。

私がお伝えする感情解放のワークは、まさにその流れのプロセスを意識しています。

だから、単に抑圧された感情を解放して終わりなのではなく、その先に始まる広大深遠な霊性の旅の準備でもあるのです。

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コミットメントと意識のポジション

最近は、以前よりずっと内なる神を意識するようになっています。レナードは「神はリアルだ」と言いますが、以前彼のセミナーで誘導瞑想を行ったとき、本当に自分の中の神に触れる体験をして以来、私にとって神は概念ではなくなりました。

それはほんの一瞬の出来事だったけれども、人生を大きく変えるには十分な体験でした。

彼は、神を信じる必要はない。あなたがそれを体験すれば、それは紛れもなく真実なのだから。と言います。信じるという行為は、まだそれを体験していない時や、真実かどうかわからない時にするものでしょうから、確かにそれはその通りです。

あの衝撃的な体験から何年も経ちますが、あの時ほどの鮮烈さはないものの、最近は日常の中でもそれに意識を向けることで、確かに神がそこに居ることが分かるし、そこを基準として自身のポジションを整えることができるようになってきました。

朝起きて一日を始めるとき、セッションやワークショップの前、散歩で歩いているとき、何か決断をする時、不安に駆られた時など、日常のあらゆる瞬間に神と自身とのポジションを確認しています。

まだまだ入り口なのでしょうが、これをすると、あちこちにずれていた自身の存在のレイヤーがピタッと一直線に合い、軸が定まる感じがするので、これが本当のセンタリングということなのだろうとやっと気づいた感じです。

今までやっていたのは、上下左右前後に肉体とエネルギーボディがズレていないかを確認する程度だったので、今のようにぴったりはまるような感じではありませんでした。けれど、概念として今分かっていることを理解していたとしても、以前の私にはできなかったでしょう。

存在のポジションとコミットメントはとても深い関係があると思うのですが、私たちは普段、意識、無意識の内に、自分の存在を微妙に歪めてバランスを取っているところがあります。

なぜそうするのかというと、ある種の苦痛回避のためです。つまり、あまりにも苦し過ぎる感覚や感情に耐えられないと思うと、それを和らげようとするために、ダイレクトにそれらを体験しなくても済むように、真正のポジションから少し歪めて、感覚を鈍くすることでその体験をやり過ごそうとするのです。

よく身体などに痛みがある時に、身をよじるようにすることがあると思いますが、イメージで言えばそんな感じです。

ワークでは、内面的にそのように歪めて回避している苦しみを、少しずつ感じ、生きていくことでそのエネルギーを解放するのですが、そうすると、歪みの原因となっていたものが抜けていくので、歪ませなくても居られるようになっていくのです。

その結果、ポジションの調整が起こります。

ワークの中ではたびたび自身の在り方を選択することを迫られます。とりわけ根源的で大きな選択をする時は、自分がどう在るのか、明確な宣言を持ってしかとコミットメントすることがあるのですが、そのときはギアが大きな音を立ててガチン!と入るような感じがします。

こういうときは、エネルギー的にも大きな変容が起こり、しばらくその余韻が続きます。

そのようにして大小の変容、コミットメントを繰り返していく内に、だんだんとあちこちにズレまくっていた存在のレイヤーが真正の位置に戻ってくるようになるのです。

そうなると、それまでどうやっても深まることのなかった意識が、存在の垂直方向へとストーン!と深まって行きます。私の場合は、この段階で一気にグラウンディングが強くなった気がします。

プレゼンスの深さも、多分数年前よりは格段に、今ここに在るものとともに居られていると思います。まだまだ細切れの意識とは言え、一瞬たりとも居られなかった時代に比べれば、大きな進歩です。

このことについて、実はレナードも正確な表現は思い出せないのですが言及していたことがありました。さらっと話していたので、注意深く聞いていないと聞き逃してしまいそうなくらいの表現だったのですが、私はなぜかそのことを覚えていて、後にそれはこういうことだったのだと腑に落ちたのでした。

いずれにせよ、深まったとは言え、まだまだ浅いレベルをウロウロしている程度なので、ことあるごとに「内なる神とともに在る」選択を繰り返しています。

その中で、どうしようもない程不完全な自分を神に委ねるということを繰り返ししていて、不安が湧き上がるたび、自分を裁きそうになるとき、踏みとどまってその苦しみも、不完全な自分も神にお返しするようにしています。

どれだけワークをしても、ある一線を越えたところは、恩寵にしかどうにもできないところがあるのだろうな、と思います。アジャシャンティも、自身の目覚めのプロセスを記した「あなたの世界の終わり―「目覚め」とその“あと”のプロセス―の中でそれについて書いていました。

けれど、だからと言って本人の努力が全く無駄であるとか必要がないとは、私は思いません。

内なる神に回帰しようとするとき、恩寵とともに在るのは確かですが、神とともに在ろうと志向し続けるのは、やはり努力なくしては無しえないことでしょう。

目覚めるために、山のような努力をしなければならないというのも真実だし、それは完全に神の手の内にあるので私たちにできることは無いという言葉も、どちらも真実なのだと思います。

今私は、ひたすら「神の手の内にある自分を深く思い出していく」プロセスにあるようなので、その両方の言葉を同時に実践しているような気がします。

いずれにせよ、このプロセスにおいても、自身の「内なる神とともに在る」というコミットメントをひたすら実行していくのみです。

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傷ついた勇者たちへ

ミッションに関する考察が続きます。昨日の遠隔ヒーリングは、個人的、かつかなりマニアックな私自身に起こった気づきがきっかけだったこともあり、当初の予想ではごく限られた方のお申込みになるかなと思っていたのですが、蓋を開けてみれば、いつもより多くの方々からのお申込みがありました。

それだけ、自身の魂の原点に返って願いを生きていきたいと真摯に思っていらっしゃる方があったということに、ある種の感動を覚えます。

ミッションという言葉に関して、おそらく少なくない方々の中に、それに対しての恐れや一通りでない感情があるのではないかと思います。

かつて、本当に使命感に燃えてそれを生きた人ほど、傷つくことも多かっただろうし、人知れずミッションの中で命を落として行ったり、あるいはその重さに潰れた人生もあったかもしれません。

私自身の魂の中にも、ミッションの重さに耐えきれずに自殺した人生や、誰にも知られずにミッションの中で死んでいった人生の記憶もあり、深い絶望感や虚しさ、無力感などがあったりします。

正直なところ、私はまだこれらを克服したわけではありません。私の奥深いところには未だ、そうした無念さや深い悲しみが在ることに気づいています。

これまで、どうにかしてこれを癒そうとあらゆる手を尽くして格闘してきましたが、今はもうこのままでいいと思っています。すべてを持ったまま、この在りのままの私を神に委ねていけばいいと。

私のミッションが神との契約であるならば、これを癒せるのは神しかおられない。そう思うからです。

そして、誰にも知られていなくても、神は私のすべてをご存知であり、私自身が忘れてしまっている祈りの言葉の一言一句まで、神は覚えておられると、確かに知っています。私はそこに、限りない恩寵を感じます。

いつだったかリトリートのとき、レナードはこう言いました。

「そのままでいいから、こちら側に来なさい」と。

どんな文脈の中でこの言葉を言ったのかは全く覚えていないのですが、このフレーズだけは印象に残っていて、たびたび思い出されます。

私たちは、「完璧な存在」になってから神にまみえようとしますが、そんなことをする必要など全くないのです。今のこの自分のまま、「あちら側」に行けばいいだけです。

人間の契約は、裏切られたり忘れられたり、ということがしばしば起こりますが、神との契約は絶対です。そしてその神の計画はあまりにも深遠であり、私たち人間の意識でははかり知ることはできません。

故に、人間目線で見た善悪や常識などに縛られていると、確かに見えてこないものもあるし、同意できないこともあるでしょう。

そういうときほど、人間としての恐怖や常識の枠組みを超えて、意識をどこにチューニングしているか、ということが重要になってきます。

私自身、軽やかに自己実現をしている人を見ると、しばしば羨ましい思いが湧いてくることもあるのですが、他の人が難なくできていることが自分にはどうしてもできず、気の遠くなるような回り道をしているように感じることもあります。

けれど、人それぞれに背景があるので、私は自身の背景を背負っていくしかありません。

かつて光り輝くような勇敢な戦士だった人が、今世では見る影もないほどの臆病者になって、思うに任せない人生の中で悶々としているのを見ることが、しばしばあります。

ただ見えている部分だけを見て、そのことを言うことはできません。そうなるにはなるだけの、言葉に言い尽くせないようなプロセスがあったのであり、誰にそれを責めることができるでしょうか。

それを責める人の中のどれだけが、かつてのその人ほどの勇者たりえるでしょうか。

そう思うとき、イエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉が思い出されます。

誰もが畏敬の念を抱かざるを得ないほどの勇者だった魂ほど、ボロボロに傷ついていることが多いのは、それだけの熾烈な戦いの歴史があったということの証しです。

傷ついた勇者よ。あなたは自分を恥じることは無い。

そんなメッセージがやってきます。

在るがままの自分であれ。

神はみなご存知である。

今、再び立ち上がろうとしている勇者たちへ。

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プレゼンスとミッション

今週の無料遠隔ヒーリングのテーマは自身のミッションに関するものですが、使命というと、人によってはそれによってとても気持ちが高揚し、自分が特別な存在になったかのような感覚になったりするのかもしれません。

そして、何か具体的な行動を生き生きとしているといったイメージもあるでしょうか。

自身のミッションに従った結果として、そのようになる場合もあるでしょうし、そういう目に見える形にはならないこともあるかもしれません。

人それぞれにミッションの形は違いますが、今回のヒーリングで意図しているのは、ただ使命という言葉で湧き起こる、表面的な高揚感によって駆り立てられるようなものではなく、本当に自身がこの世界に生まれてくるときに神と交わした契約を、今この時にスイッチを押すというイメージです。

だから、表面的に焚きつけられて燃え上ってはすぐに消えてしまうような、そういう使命感ではありません。自身の魂の奥深くにしっかりと持っているものが、今芽吹いていく。そういうタイミングに来ていて、そしてこのヒーリングにご縁を感じる方たちのためのものです。

私自身のミッションについて、先日自宅にある火鉢に火を入れながら、思うことがありました。

私の自宅とサロンでは、趣味と実用を兼ねて冬になると火鉢に炭を入れて暖を取っています。(もちろん、エアコンも併用ですが)その火鉢に入れる炭に火を熾すとき、よく火が熾ってから火鉢に移さないと、消えてしまうことがあります。

表面だけカッカと火がついたように見えて、その火が持続するまでりっかり中まで火が熾っていないので、少ししてから見るとせっかくの火が落ちているのです。

そうなる前に、ちょっと火が弱かったときは息を吹き込んで、消えそうになっている火がしっかりと定着するように、面倒を見ます。

その作業をしていて、私の中のミッションの火はしっかり熾っているだろうかと、ふとそんな思いがよぎりました。

火が消えてしまった炭も、もう一度火を入れれば全く新しい炭よりは火の付き方も早いのですが、きっと私はこれまでの魂の旅路の中で、何度も消し炭になったことがあったのだろうな、と思いました。

それでも、今回は何度目かは分からないですが、これまでよりはきっと深く火が熾っているのではないかと何となく感じます。

力みすぎて力尽きてしまうことが無いように、余分な力を抜いて、そして常に自身の内なる神に意識を向け、それと一体になって流れるように。

自分でないものになろうと必死になるのではなく、ただ今ここに在るということから生まれてくるものを、起こるように起こさせていくことに対して、クリアであるように。

突き詰めていけば、自身のミッションというのは、究極の「自分で在る」ということなのかもしれません。

レナードは、「何をするかよりも、どう在るかが重要だ」と言います。

まず「在ること」が先にあって、そこから行為が起こっていくのですが、私たちはしばしば「すること」「為すこと」の方が重要で、「在る」ことはおざなりにしたまま、質の伴わない空回りしたような行為をバタバタとしています。

私たちが自身のミッションを果たそうとするとき、まず「今ここに在る」というこプレゼンスがベースになるでしょう。

私は魂のミッションというのは、神との契約だと思っているのですが、人によってそれをどうイメージするかは様々だと思います。

契約という言葉にネガティブなイメージを持っている人は、それを自分を縛る窮屈な制限だと感じるかもしれませんし、ポジティブなイメージを持っている方は、自身の存在のよりどころ、根っこのようなものに感じているかもしれません。

いずれにせよ、それは私たちの魂の中に組み込まれた、この人生を意味づける重要なカギです。自身のミッションが何か分からないという方は、よくよく自分と向き合い、自分を知ることが大切です。

自分自身の存在の響きに、じっと意識を傾けてみてください。

自身の響きの最もクリアなところに意識を合わせたときに、自分がいるべきときにいるべきところに居る安らぎと、パワーが湧き上がってきます。その時あなたは、光の柱となっているでしょう。

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愛と使命について

ここのところ、先日の「愛のコード」に引き続き、パラパラと色々な気づきが来ていて、それについてどう消化・昇華させていくのか、考察を重ねています。

自分の中に埋め込まれている「愛のコード」に気づいてから、そのコードが活性化しているようで、もともと弱かったグラウンディングがぐっと深くなっているのを感じます。

様々な現実のストーリーの中で示されるサインは特に魅惑的で興味深く、ともすればそれに飲み込まれてマインドを彷徨ってしまうことになります。

だからマインドが興味を惹かれそうな流れになると、いつもどこかでプレゼンスとのバランスに気を揉む自分がいるのですが、ストーリーから出てくるサインの中にも、今この瞬間の自分を知る手がかりとなるものが確かにあるので、プレゼンスをベースにしながら、けれども注意深くストーリーも楽しむようにしています。

この「愛のコード」は色々と使い道があるようで、昨日もあれにもこれにも使える、と新しいおもちゃを手に入れた子供のようになっていましたが、ただの癒しのツールに留まらず、自分のルーツを知るカギでもあり個を超えたものの歴史であり、実はもっと深遠な領域を開くゲートでもあるような気がします。

まぁ、最善のタイミングでおいおい触れていくことになるだろうと思っています。

それとともに、「水のコード」というキーワードもやって来ていて、調べていくとなかなかに面白そうな流れがありました。

そう言えば、「愛のコード」を呼び覚ましたとある神社に去年、仲間とともに通っていた時期にも、「水に関する秘密」のメッセージやサインが降りてきていました。

「水」って、私たちが触れない日はないほど身近な存在ですが、実は私たちの多くはその存在のほんの上っ面しか認識しておらず、目の前にありながら、その秘密には触れられていません。

この「水のコード」にも、再び意識を向けていこうと思います。

ほんのちょっとした意識の向け方の違いで、水のエネルギーを励起させることも可能で、これを身体の中の水分に対しても行うことができたので、きっと様々な体調不良などにも有効なんじゃないかと、いま自分の身体で試しているところです。

これまで、水に対してエネルギーを転写したりチャージしたりということはやったことはありますが、水そのもののコードに触れるというのは初めてなので、なかなか興味深いです。

上手くいったら、今度の4月11日の瞑想会で誘導してみようと思います。

人の心にせよ物質にせよ、結局どのレベルからそれに向き合い、どんな領域を認識しているかで随分と捉え方も、それによって起こってくることも違ってきます。

今回、最初に示された「愛のコード」は、意識の領域を広げていく旅において、私にとってはアンカーのような役割も果たしているような気がします。

スピリチュアルの深遠で広大な領域を旅するとき、そのやり方は人によって様々ですが、一気に軽やかな光の領域まで広げてしまう人もあります。

けれど私はそういうやり方にはあまり興味が無くて、最も重く濃密なエネルギーのレベルから離れることなく、深遠な光の領域を同時に体現したいという願いが常にあります。

これは学校でどんな勉強がしてみたいのか、というほどの単なる志向と資質の問題だと思うのですが、私の興味はどうしても、深い闇の中で鮮烈な光を見ることに向いてしまいます。

そんな私にとって、「愛のコード」は、重く濃密なエネルギーの世界に打ち込まれた揺るぎなき楔であり柱なのです。

「楔」という字は「木」に「契」と書きますが、まさにそれは契約の柱です。それを認識する者にとっては、とてもとても深い意味があります。

これによって、広大深遠な領域の極と極を、自身を見失うことなく安定して旅することができると、私は感じています。

よく、「自分の使命は何か?」と問う人がありますが、使命に生きることで、自分自身の価値を見出そうとする人がいる一方、使命の重さの中で潰れていく人生も少なくありません。

本当に魂が決めてきた役目を全うしようとするとき、ただ使命という言葉によって湧き起こる高揚感だけでは、折れてしまうことがあるような気がします。

みなさんそれぞれに、自身の内にまごうことなく「愛の楔」を見出すことが不可欠とさえ言えるのではないかと、個人的には思います。

自身が揺るぎなく愛に溶け込んで、その愛の発露が使命なのであって、使命と自分が分離している状態では、役割の重さの中で疲弊し、潰れてしまうでしょう。

確かに、使命に生きれば自身の生き生きとした価値を感じることができるでしょう。けれどそれは、使命を生きるからそうなのではなく、自身が愛そのものの体現であるからこそ、そうなのです。

今生の使命を全うしたいと思うのなら、自身の内にあるこの「圧倒的な愛」を見出すことは、とても大切なことだと思います。

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愛の楔

4月5日の感情解放ワークショップは満員になりましたので、お申し込みを締め切ります。4月15日と29日はまだ空きがございますので、どうぞご検討くださいませ。

さて。今日は昨日の続きで、吉田松陰という方と、それにまつわる私の気づきを綴っていきます。

私はあまり幕末史は詳しくないですし、正直、吉田松陰という人のことも学校で習った歴史の中でそんな名前もあったかな、というほどの認識でした。

ところが20年近く前に、まったく思いもかけないご縁で松陰先生の生誕地・萩に旅行に行くことになりました。このとき、せっかく行くのだったら少し萩の歴史でも調べて置こうと何となくネットで色々調べていたところ、萩と言えばこの方を避けて通ることはできない土地柄、ある旅行者のブログにたどり着きました。

その方は、宿の女将さんに「松陰神社に行ってきます」と告げたところ、女将さんは「松陰先生のところにいかれるんですね」と言ってその方を送り出されたというくだりを読んで、今でもなお、松陰先生の魂がこの土地の人々の中に深く根付いていることを感じました。

普通だったらさらりと流すところなのですが、この女将さんの言葉になぜかものすごく反応して、自分でも良く分からないままに号泣していました。

あまりの反応の仕方に自分でもびっくりしたのですが、どうやら私の魂は松陰先生を知っているようだということは分かりました。

武士の過去世は何度もありますが、はっきりと幕末の頃の記憶が出てきたことはありません。けれど、「松陰先生!」と言って涙するということは、この方の魂が吉田松陰として生きた時代に、その薫陶を受けた一人だったのだろうと思いました。

そして実際に萩の松陰神社に行ったとき、境内にはかなりの観光客がいましたが、その中で神社の宮司さんがなぜか私たち3人のところに来て、「どこから来たの?これ、少ないけれど差し上げます」と言って神社のパンフレットを私たちだけに下さいました。

なぜ私たちだけに?と不思議に思いながらも、お心遣いに感謝して、さらに見学を続けました。

松陰神社には「明治維新胎動之地」と刻まれた大きな碑があるのですが、その前に立ったとき、周りに人がいなかったら私は多分、また号泣していただろうと思うくらい、胸がいっぱいになっていました。

そのときは、過去世の記憶から反応しているだけなのだろうと思っていましたが、実はこのことがもっと深い意味を持っていたことに、つい先日気づいたのでした。

友人との話の中で「人を光の柱とする」というキーワードが出てきたときに、これまでの人生でバラバラに示されていたパズルのピースがピッタリとはまっていったのです。

そうか。松陰先生は、この日本という国に門下生たちを通して光の杭を打ち込まれたのだ、とはっきりと理解できたのです。

その光の杭というのは、まさに先生の愛でした。それはとても一言では言い表すことはできないのですが、先生は、寝食を共にし、触れ合った数多くの人たちの魂の奥深くに、しっかりと揺るぎない愛の楔を打ち込まれていたのです。

あの明治維新という大業を為し遂げさせるほどのエネルギーがどれほどの愛なのか、想像できるでしょうか。

松陰先生はしばしば、その常人離れした過激な言動から「狂人」と評されますが、狂うほどの圧倒的な愛なのです。その愛に触れたら、狂わずにはいられないでしょう。

松下村塾を巣立った志士たちがその後辿った末期を思えば、その壮絶さが分かります。

彼らの魂には、深く先生の刻んだ愛のコードが生きています。だから彼らの軌跡を辿るとき、人は魂を震わせるのです。

現代日本において、このコードはなお生きて稼動しています。人の魂を柱として、深くこの日本という国を深いレベルから支えているのです。

歴史はそれを見る領域や視点から様々に評価されるものですが、ただのロマンではなく、今この瞬間に実際に生きている生々しいものであり、確かにそれは私たちに自覚の有無を問わず、影響を与えているのです。

そうした理解と同時に、また別の気付きもありました。

私は戦乱の世を武士として生きた人生の経験から、今でも何となく刀剣や茶道にわだかまりがあるのですが、特に茶道に関して、ある記憶が鮮明によみがえってきたことがありました。

その時私は友人たちとカフェでお茶をしていたのですが、話題がお茶や茶道などの話になった時、突然、私が茶室で3人ほどの男たちに茶をたてている場面が見えました。和やかな場ではなく、彼らとの今生の別れの儀式でした。

私の前に居る3人は、この茶を飲んだら彼ら自身の使命を全うするために、二度と帰らぬ死地へと向かうのでした。3人も、私も、深く覚悟を肚に、共に在る今この瞬間を味わっていました。

茶釜から湧きたつ松風が、ただこの空間を満たしています。

無言で茶を飲み干すと、別れの言葉を短く述べた後、彼らは影のように静かに去っていきました。

死地へ向かう者も、それをを送り出す側の心情も、なかなかに言葉では言い表すことのできないものがあります。

松陰先生は若干29歳で多くの門下生たちより早く、この革命の先陣を切って命を絶たれましたが、若い命を死地へ送り出すような場面をもし経験されたとしたら、どんなお気持ちになられただろうと思わずにはいられません。

私には迫害される教えの伝道師のような人生もあるのですが、どうもこの辺りが、私が感情解放のワークをみなさんにお伝えするときにしばしば浮上する躊躇に影響しているのは以前から気づいていました。

かつての時代のようにワークをしても死んでしまうことはありませんが、ワークをされる方が苦しいプロセスを通過するとき、側に居ればまだしも、物理的に離れているときは特に、このプロセスに耐えて通り抜けていかれるだろうかと心配する思いは今でもあります。

革命の中で、倒れていった無数の名もなき人々がいるように、魂のミッションの中で挫折したように思えるときもあるでしょう。それでもなお道は続いていて、再び立ち上がることもできるのだと知り、立ち上がろうとする人々の側に寄り添って在ることが、私の役割の一つかな、と改めて思いました。

私の中に生きる先生の愛の楔について、今後さらに意識していきたいと思います。

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ミッション

4月5日(水)の感情解放ワークショップですが、午後のクラスは残席1名となりました。ご検討中の方はお早めにお申込みくださいませ。お申込みはこちらからどうぞ。

さて。東京ではこの寒気で桜はまだまだ1分も咲いていない感じで、満開のお花見が待ち遠しい今日この頃。

様々な気付きがあって、これまで大切な何かであることは分かるけれど、一体それがパズルのどのピースなのかさっぱり分からなかったものが、次々にピッタリとはまっていく流れがやって来ています。

個人的な備忘録として、またこの流れに共鳴する存在たちのために、今日は今私に見えているものとその経緯を記しておきたいと思います。

一つ目のパズルのピースは、もう16,7年以上前になりますからヒーラーになるずっと前ですが、ある晩の眠りに落ちる直前に、突然日本地図がビジョンで現れたことがありました。

まったく突然だったしそんな不思議な体験はほぼ初めてだったので、一体何だろうと思ってそれを見ていると、ある3つの場所から巨大な光の柱が噴き上がっているのが見えました。あまりにも鮮明で不思議なビジョンだったので、翌朝起きてからそれがどこなのか、地図で確かめてみました。

すると、明確にこの場所である、というポイントが分かりました。一か所は都内の自宅から近い場所だったので、行ってみたことはあります。

それはある神社だったのですが、後にある方のリーディングセッションを受けたら、そこの祭神さまに「またおいで」とメッセージをいただきました。行ったから特に何があったわけではないのですが、今思えばこれからつながっていく流れの最初だったような気がします。

3つのポイントの内、もう一か所も遠い場所でしたが友人と訪れることができました。村でお祭りしている小さな、けれども平安時代からある古い神社でした。

他にも光の柱は見えるだろうかと思って日本地図に目を凝らしてみると、至る所にそれが見えました。けれど、神社だから必ず光ってみるかというとそうでもなく、逆に何もない山中に確かにその場所であると確信を持って分かる場所もありました。

それが何であるか、私にはわかりませんでしたが、何らかの「痕跡」を読み取っているのだろうということだけは分かりました。

しばらくはその光のポイント巡りをあちこちしていましたが、それもいつしかやめてしまい、意味を追うこともしなくなりました。それから10年近くたってから私はヒーリングの世界に入ったわけですが、去年の2月~5月にかけて、また別の都内のある神社に継続して通っていた時期がありました。

色々経緯があったのですが、毎週ある仲間たちとそこに集って祈りを奉納していたのです。その仲間たちも不思議なご縁で、強烈な流れの中で出会い、意味も分からず集っていたのですが、その時期の瞑想では、膨大なビジョンやメッセージが降りてきていました。

都合7回の会合が終わった後、そのご縁はきれいに解消されてしまい、元々私につながっていた方たちを除けば、他の方とはもう全くつながりはなくなってしまったので、まさにそのために集められたメンバーだったのでしょう。

それらのパズルのピースは、私と「土地」に封じられたコードに関するもので、どうやら私はこの人生以外でも、色々と土地のグリッドに関わる仕事をしていたことが多くあるようです。

様々なヒーリングを学ぶなかでヒプノのセミナーを受けたとき、自身で見た最初の過去世は武士として戦乱の世を生きた人生でした。

けれどそれはただの武士ではなく、人間の次元では城を攻めたりということも実際にしていましたが、同時進行で別の次元では、肉体を持たない存在たちとの熾烈な戦いや駆け引きの中で、様々な任務をこなしていました。

そうした次元の動きが人間世界の動きとなって表れ、歴史になって行っているので、この国の歴史の裏には、別次元の歴史が密接に関連しているわけです。

去年の会合は、イントロはあったもののしばらく何の音沙汰もなかったミッションが突然復活したようなものでしたが、またぱったりと止まっていました。

そしてつい昨日、ある方と話をしていて、ある言葉をきっかけにバラバラだったパズルのピースがピッタリとはまって行ったのです。

詳細部分の正確な表現は忘れてしまったのですが、私が人と関わる方法は、土地と関わる方法に近い部分があるようで、土地に光の柱を立てるように、人を通して光の柱を立てているようなのです。

もちろん、瞑想会などでは確かにその通りなのですが、そうした限定的な意味ではなく、人を光の柱そのものにして個を超えたレベルの道を切り拓いていくようなイメージでしょうか。多分、これはレナードが「イエスの解放」の中で語ったものに近いミッションであるような気がします。

それを言われた時にハッと気づいたのが、歴史上の人物の吉田松陰先生とのつながりと、私の中で繰り返し表れるある思いの理由でした。

長くなるので続きはまた明日。

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内なる神との対話

プレゼンスでいるためには、「今この瞬間」を何よりも優先するという選択が不可欠です。けれど、これがなかなかできないのですよね。「今この瞬間」に居たからって、目の前に山積する問題が今すぐ解決するわけじゃないのだから、とにかく動かなくっちゃ!と思ってしまうのです。

が、ここをこらえて「今この瞬間」を優先できたとき、人生の中で何かが変わって行って、不思議と色々な導きがやってきたりするのです。

頭でこのことがどれだけ分かっていても、ついついジタバタしてしまうのが私たちの性というもの。だから丁寧で注意深い実践が必要になってきます。

今日も、内なる神に呼びかけながら、できるだけ神とともに在ることを意識し続けていました。

もちろん、色々仕事をしているときは必ずしもそうできているわけではないのですが、これまで一日に5分とできていなかったものが10分になれば、それだけでも2倍ですから、レベルの低い話と侮らずに意識を向け続けることをひたすら実践しています。

実際、内なる神とともに在ることは、とても心地よい状態になることもありますが、そういう状態というばかりでもないので、私にとっては「それでも神とともに在ることを選ぶのか」と常に問われているような気がします。

そんなことを感じていると、プレゼンスに在るというのは、何かメリットがあるからそうするという類のものではないのだろうな、と改めて思います。

多くの人は悟りや目覚めを、苦しみからの解放として捉えています。けれど、目覚めを経験した様々な人の著作などを見ると、確かに人生は劇的にその意味合いを変えますが、目覚めても相変わらず様々な喪失や病気、離婚などが起こっていたりします。

ただ、その体験の仕方が変わるというのはみな口をそろえて証言しているところではありますが、私たちの多くが想像している、目覚めればすべてがばら色になって苦しいことは起こらなくなるというようなものではないようです。

きっとそれは、また別のレベルでの話なのでしょう。

となると、「それでもなぜプレゼンスを選択するのか」という命題に戻ってきます。メリットがあるから選択するのではないとすると、なぜなのでしょう?

ここで、「え?メリットがないならいらないや」となる人は、プレゼンスを人生の最優先事項にすることはないでしょう。

レナードは、そこに人生の真実があるからだと言いますが、私は言葉ではその理由をうまく言い表すことができません。正直、私には人生の真実なんてよくわかりませんから。

ただ、自分でもよくは分からないけれど、抗いがたく私の意識はその方向へと向けられ、こんなにもできないことの連続であるにもかかわらず、違う方向へ逃げてしまうことができないのです。

それを求める人それぞれにプレゼンスを求める動機は無数にあるでしょうが、最終的には言葉ではないところで何か強烈に吸引される力を感じているものなのではないかと思います。

これまで自分と向き合い続けて来て思うのは、自分と向き合うことは、すなわち内なる神と対話することとイコールであったということです。

自身と適切なコミュニケーションが取れていなければ、内なる神との対話はできません。

しばしば、私は神と向き合うことが非常に辛くなるときがあるのですが、そういう時は必ず自分自身とも分離しています。とても自身の気持ちに触れることができていない状態になっているのですね。

昨日は、神と対話しながら「あなたとともに在ることはとても苦しいです。けれど、私はあなたと在ることを選びます」と言いながら、その苦しみを受け止めていました。

しばらくそうしていると、何かが自分の中で変化していくのが分かりました。少しずつ、少しずつですね。

古来、古今東西の多くの聖職者たちは、「神学」などで神を理論的に知ろうとして試みてきました。私は全くの門外漢ですが、神を学問的に知ることは、不可能な試みだろうとは思います。

神学という学問は神という概念についての定義づけの試みであって、神の直接体験とは全く別のものでしょう。求めるべきものは、神の概念についての知識なのではなく、神に触れる実体験です。

私たちは誰しもそれが可能であり、そして導きはあるにせよ、それは個人的な体験だろうと思います。一人一人が直接、神に触れるのが当然であり、間に何者も挟む必要はないし、挟むのは本来の形ではありません。

自分自身で神の声を聞けるように。そのためには、自身との真摯な対話を怠らないことは、最低条件だろうと思います。

ここまで自身と分離し、神と断絶してしまうまでに深くなった溝や厚い壁を取り払うときに、自分で作り上げたそれらを解体する作業は人それぞれの道のりがあるでしょう。

隣を見て誰のやり方が良いとか悪いとかではなく、唯一無二の自身の歩みを慈しみながら進めばいいと思います。

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