魂の錬金術

感情解放ワークをやっていると、善悪というものへの概念が本当に変わってきます。もちろん、人間社会に生きていれば厳然とそういうものはあるのは当然ですが、そういう枠組みを大きく超えた深遠な意図が隠されているのをまざまざと見せられたりするので、一概に人間目線の善悪でものごとを決めつけて見られなくなってしまうのです。

たとえば今、誰かがとても困難だと見える状況に置かれているとします。本人も、とても苦しんでいるように見えて、可哀想に、気の毒だ、大変だろう、何て不幸な人なんだと思うかもしれません。

こんな状況にあるとき、実はそれが魂のレベルでは、待ちに待った状態であり、その中でしか為し遂げることのできない学びを得ようとしている祝福の時間だったりします。

本人の顕在意識レベルでは絶望のどん底であったとしても、魂としてはどうしてもそれを通過して、変容していきたかったのですね。

よく、スポーツでもアートでも、自分をギリギリのところまで追い込んで限界を突破していくという例があると思いますが、誰にでも、人生でそういうテーマがあるのではないでしょうか。

そういう状態にある人が側にいるとき、私たちはどんなスタンスでいることが良いでしょうか。

たとえば、どんなアドバイスも受け入れず、自分の殻にこもってしまったような人とか、大きく道を外れてしまったように見える人、周囲のだれかれ構わずに迷惑をかけまくっている人などなど。

あまりに迷惑を周囲にかけまくっている人に対しては、社会常識的なレベルの対処はもちろん必要だろうと思います。

ただ、それ以外のところでは、まずはその人を見たときに自分が「どんな気持ちになっているか」というところをしっかり自覚しながら行動していかないと、その人に対して良かれと思ってしたことでも、あまり良い結果にはつながりません。

というのは、その人を見たときにトリガーされた自身の痛みによって行動に駆り立てられるということは、純粋に相手の人のための行動ではなく、自分の中の落ち着かない気持ちを収めるための代償行為になっているからです。こうなると、その行為はいわゆる「偽善」と呼ばれる類のものになります。

つまり、「相手のため」と言いながら、実は「自分自身のための行為」だからです。偽善は、本当に相手のためになる行為とは違って、受け取った相手に押しつけがましさや重さを感じさせたり、本当にその人が必要としたものとはかけ離れたちぐはぐなものになってしまったりしまうのです。

だから、まずは相手を見たときに、自分の心の中に何らかの痛みの感情が浮上していないか、注意深く見て浮上しているのなら、しっかりとワークして受け止めておくことが第一です。

これができた上で、改めて相手を見たときに、その人が本当に必要としているサポートをすることができたり、相手に失望して見捨てたりすることなく、その人の可能性を見てじっと見守ることができるようになるのです。

こうした在り方でとても良い見本だな、と私が思うのは、天皇皇后両陛下です。

両陛下は、よく被災地の方々に対して「心を寄せていきたいと思います」という言葉を使われることがあります。ここには「同情」というようなものは一切なく、あるのはただ、その方々の深い心の痛みに寄り添いつつ、共に在るという慈しみの心だと私は感じます。

「同情」はどちらかと言うと、自分の中にトリガーされた落ち着かない気持ちに巻き込まれ、駆り立てられた心の在り様です。この状態では本当に他者の心の痛みに寄り添うことはできないのです。

巻き込まれる「同情」と寄り添う「共感」の違いをよく認識し、本当に寄り添える在り方ができたら、と思います。

その上で、自分や他者の人生に色々起こる眉根を寄せるような出来事や誰もがうらやむような事象の数々を思うとき、人間目線の善悪を見るのではなく、魂がそこから何を得ようとしているのか、魂のチャレンジ、あるいは神の意図をこそ見たいと思うのです。

もちろん神の意図など、到底私たちに計り知れるようなものではありません。であるならなおさら、私は自らの視野を善悪の二元性で固定させたくはないのです。

神は、「悪の極み」と見えるものさえも、ご自身の計画の手段に使います。(私は神を人格を持った存在として認識してはいませんが、便宜上このような表現を使います)

そうしたものに関わった人が、悲劇の中から「真の神の意図」を汲み取った時、その「悪の極み」と見えたものは、確かに「神の御手」だったことに気づきます。そして「悪」を演じた存在もまた、その瞬間同時に昇華されるのです。

これが魂の錬金術・アルケミーです。

とてもとても、高度な学びですね。ときに、これを解くのに何生もかかるかもしれません。それでも、魂は超えていきたいのです。自らの無限の可能性を証明するために。

鮮烈な光の中に絶望的なまでの闇を見、耐え難い闇の中に想像をはるかに超えた神聖な光を見たとき、あなたは真の神を知りつつあるのかもしれません。

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憎しみの心理構造と、癒しと和解への道

先日、1つの憎しみの感情が和解する出来事がありました。かねてより関係がこじれていた習い事の先生と、久しぶりにSkypeで話す機会があり、これをきっかけとして腹を割った対話をすることができたからです。

その先生とは、習い始めた当初から意志の疎通がうまくできなくて「合わないな」という思いを抱いていたのですが、少しずつのすれ違いの出来事が積み重なって、私は信頼をすっかり失っていました。

本当はすぐに関係修復に向けて動ければよかったのですが、胸に抱いている様々な不満を受け止めて聞いてもらえる気が全くしなかったので、腹に溜め込んだまま、半年余りを過ごしてしまいました。

そうして、習い事の方が完全に行き詰ってしまい、自分ではどうにもならなくなったので、仕方なくSkypeで連絡を取ることにしたのです。そのときは、適切なアドバイスもいただけず、モヤモヤが残ったまま終わりました。

ある意味、とても失望して困惑したのですが、このままではいけないと思い、翌朝、これまで腹に溜め込んできた様々なモヤモヤした気持ちを、不快感をただぶつけるという形ではなく、建設的なきっかけとする意図を込めて丁寧にしたためたメッセージを送りました。

私が不信感を抱くに至ったいくつかの出来事の経緯や、これまでの指導に対して困惑した点、本当はこうして欲しかったというニーズを、正直に、誠実に書いたのです。

このときに注意したのは、私の中の怒りや憎しみといった、痛みの感情のエネルギーは、自分で責任を持って受け止め、あくまでこれは今後健全な信頼関係を築くためのものであることを意図し、明記した点でした。

メッセージを送ってから返事が届くまでは落ち着かない気持ちでしたが、最善を尽くしたこのメッセージでダメなら仕方がないな、という覚悟はありました。

果たして、その日の昼に届いたメッセージでは、コミュニケーション上の不備を詫びる言葉があり、私が意図した健全な信頼関係を築いていくという部分に対して、同意していただけた言葉がありました。

これを受け取って、私は本当に、正直に自分の気持ちとニーズを伝えて良かったと心の底から思い、ホッとしました。ずっと心が張り詰めていたのでしょう。思わずうるっときたのですが、それだけ辛かったのだな、と改めて思いました。

私が半年間、先生に抱いてきた憎しみや不信感も、やっと解けていきました。本当は憎みたいのではなく、互いに理解し合い、信頼して良い関係を築いていきたかったのです。今、それができるベースができたことに、安堵の思いがしました。

憎しみを解いていこうとするとき、注意すべきは「決して自分の心の痛みを相手に投げつけない」ということです。これをしてしまうと、憎しみはさらなる憎しみを産み、憎しみの連鎖が延々と続いていきます。

これは絶対にしてはいけません。憎しみを抱くには、相手からされたことをきっかけとして、自分が何らかの苦しい思いをした経緯があったのでしょう。であったとしても、その出来事によって浮上した苦しみの責任は、自分自身が負わなくてはなりません。

それは元々、自分の中に既にあったものが、相手の行為によってトリガーされただけです。だから、完全に自分で責任を取ることができるものなのです。

痛みの反応としての応酬を思いとどまり、この苦しみを自分で受け止めるということが、まず第一になります。

これがある程度できた状態で、相手に対して誠実に、自分の中で起こった気持ちを在るがままに伝えます。そして、本当はどうしたかったのかというニーズを伝えるのです。

自分の気持ちと本当のニーズを告白するということは、ただそれだけのことですが、わだかまった心模様を芯から癒していく力がある行為です。確かにこれをするには勇気が要ることもあるでしょう。けれど、正しく行えば、必ずわだかまりを解いていくことができます。

勇気を奮い起こすには、自身の心を整える前段階が必要かもしれません。胸に抱いた苦しみを受け止める作業もそうですし、意図を正しく設定することもそうです。

「あなたのせいで私は苦しい。だからあなたが私の苦しみに責任を持つべきだ」という意図で相手に向き合っている内は、決して互いの間の憎しみは、解けることは無いでしょう。

和解は必ず、自身の苦しみの責任を自分で取った時に起こります。それは、痛みの反応の結果としては起こりえず、自身のあらゆる感情の責任を引き受けた「自立した一人の人間」として相手と向き合ったときに起こるものなのです。

このようにして相手に向き合ったとき、相手は私から痛みを受け取りません。このため、素直に私の状態を受け止め、本当はこうしたいというメッセージを受け取ってくれます。

誰しも、憎み合う関係は望んでいないと思います。絶望的なまでに相手に求め、叶わないので失望し、心の痛みに耐えかねて相手を憎むようになるのでしょう。こんな関係を解いていくには、まず自分が自身の感情に責任を持つところから始めるのです。

1000年の恨みも、同じ方法で解いていくことができます。あなたの中の恨みも、必ず解いていく道はあるのです。

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第342弾 無料遠隔ヒーリング

毎週月曜日は恒例の無料遠隔ヒーリングのテーマの設定日です。 第340弾のご感想をホームページにアップしましたので、参考になさってみて下さい。

さて。先週は「人生を導く大きな力との対話」がテーマでしたが、みなさんはどのくらい対話できたでしょうか。思うようにならないこと、思ってもみなかったけれどうまくいったこと、願って願ってやっと叶ったことなど色々あるでしょうが、それらの出来事の中に差し出されていたメッセージに気づきましたか?

私自身も呼びかけ続け、またじっと内なる心の耳を傾け続けた一週間でした。

その中で示されたのは、本当の願いの成就に向かっていくプロセスは、必ずしも自分が考えた通りの方法で成就するわけではないということでした。

頭では理解しているつもりでしたが、実際は「自分の思うやり方」に固執していて、その通りにならない!とイライラしていたのですから、分かっていなかったということですね。

まったく自分の思ったようにならないように見えて、実はそれが願いに向かって確実に進んでいるが故の状況であるということもあるのです。

そうした状況で差し出されているのは、その時に浮上している諸々に対して、いかに意識を持って受け止め、応答するか?ということであるような気がします。

思うようにならない現実に在るとき、私たちは非常にストレスを感じます。けれど、そういう時でないとできない経験もありますし、身につかない技術や能力などもあるわけです。

余裕のあるときには軽々とできることも、ギリギリの状況の中で同じように行うには、何倍もの精神力や技術力が必要です。差し出された状況は、そうしたものを磨くための訓練なのでしょう。

じりじりと湧き上がる焦燥感を受け止めながらプレゼンスの意識を深めていったり、過去や未来、どうでもいいような雑多な思考に意識が流れがちになるのに気づいては、プレゼンスに戻る選択したり、なかなかプレゼンスが深まらなくて失望感に飲み込まれて行く中で、それに気づいて感情を受け止めたり。

自分を見失いそうになる状況の中で、どこまで自身の心と体に踏み留まり、受け止めることができたか。

私の状況など大したものではありませんが、それでもそんなことを意識しながら過ごしていました。そうすると、ほんのわずかではありますが、以前だったらずるずると崩れて行ってしまったであろう場面でも、そうはならずに切り返している自分に気づいたりするようになりました。

今までの自分の限界ラインが、少し広がった感じですね。

思うようにならない状況というのは、こうした自分に成長するための機会を与えられているのだろうと思います。そしてその時に身に着いた力は、なりたい自分になっていく次のステップで、必ず必要になって来るものです。

そう考えると、全てはうまくいっているし、願いの成就に近づいていると言えるでしょう。

ただ、そう考えて「今この瞬間」を「いつか未来」のためのプロセスにしてしまってはいけません。不完全に見えるこの現実の完全性を、頭ではなくもっと深いレベルで確かに知っている在り方を、今ここで体現することが大切です。

結局のところ、「本当に知る」というのは頭の理解のことではなくて、「在り方を体現していること」だと思います。つまり、存在のあらゆるレベルでそうであることをピッタリと体現して初めて、「知った」ということになるのだろうと思うのです。

「人生を導く大いなる力」と言葉にならない対話を繰り返しながら、自分自身の在り方を修正していきます。

向き合っているつもりでいて、心の目を閉ざしていないか、聞く耳を塞いでいないか、そもそもそれに意識のフォーカスが合っているのかどうか。

向き合えていないのであれば、向き合った時にどんな気持ちが浮上していて、それに対して自分はどんな態度を取っているのか。

見るべきところ、自身に問うべきところはたくさんあります。

気づき、認め、選択することの繰り返しによって、ズレていた在り方が修正され、何かがぐっと深くなっていくのを感じるのです。

今の自分がどれだけ理想の自分とかけ離れているかは、全く問題ではありません。ただ必要なのは、今現在の自分と、在るがままに対峙する意志があるのかどうか。それだけです。

誰しも、最高のコンディションの中でテーマに向き合えるわけではありません。最悪の状況の中で、完璧にやろうとするのではなく、ほんのわずかでもできることを探して応えていく。ただそれだけでいいのです。

苦しいからこそ、強く呼びかけ、祈り求める。人生には、そういう時期があるものなのではないでしょうか。そして、そういう時期だからこそ、人間としての根がぐっと深く伸びるのでしょう。

というわけで今週のテーマはこちら。

差し出された状況の中で、少しでもできることを探して応えていくよう最高最善に働きかける

参加される方は、「無料遠隔ヒーリングの受け方」ご覧になり、 ご理解のうえ5月17日(水)17:00までにメールまたはメールフォームにてお申し込み下さい。 同日20:00より順次働きかけを行っていきます。

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未来から過去へと流れていく時間

日々、自分自身と向き合っていて、一体どれだけ「今この瞬間」に居られているだろうかと思うのですが、一方で様々なことについて思索や考察をするのも好きなので、それはそれで楽しむことにしようと開き直っている今日この頃です。

一方で、日常の中でプレゼンスに入れる時間を見つけたときは、ぐっと深く内なる静寂を感じるようにしています。ただ静寂が差し出すものを感じているだけでも、人生の様々なストーリーよりもドラマティックな言葉にできない諸々が、この私という意識を通り過ぎていきます。

内なる神は私に何を伝えようとしているのか、人間の頭で捉えようとしても、それはその理解をはるかに超えているようで、到底理解の及ぶところではありません。

ただ意識に起こっていることを通過させているときは、宇宙空間をものすごいスピードで駆け抜けているようでもあり、また強い砂嵐の中に居るような感じにも似ています。

その中で、何の期待も意図も持たず、知りたいと前のめりになることもないように注意しながら、じっとそれを観察し続けています。

そんな体験を持ちながら、人間としてこの世界を生きている自身の現実に向き合うとき、浮上して来る様々な感情にも妙にてこずるときもあります。

どんなにあるがままに受け入れようとしても、心のどこかで「こんなのは嫌だ。もっと違うのが良い!」と駄々をこねる自分がいることに気づくのです。

随分、恐れやその奥にある痛みの感情を抱きしめ、統合してきたつもりでも、そういう自分が出てくるものなだぁと、半ば途方に暮れそうになったりもしたのですが、「これもまた自分」と認めたとき、「こんな自分はいてはいけない、すべて受け入れなければ!」と、駄々をこねている自分の姿がそこに重なりました。

まるで合わせ鏡のように、どこまでも続くものなのですね。気づいた瞬間、駄々をこねる自分は弛んでいました。

そしてまた、時間に関する気づきもありました。

私たちは通常、時間は過去から未来へと流れていくと考えています。けれど、「カタカムナ」などの考え方では、時間は未来から過去へと流れていくと捉えられています。

カタカムナというのは、1万2000年以上前に日本に存在していたと言われる高度に発達した文明で、カタカムナ文字で表された古文書を解読したところ、驚くべき宇宙観が隠されていたことが研究者によって明らかにされました。

詳細はここでは語りませんが、時間が未来から過去へと流れていくと考えると、何だかとてもすっきりと腑に落ちるものがあって、やって来るものに逆らわずに、よりリラックスして今を受け止められるような気がしました。

プレゼンスの教えからはちょっと別のレベルの話になってしまいますが、過去から未来へ流れていく時間の重さに耐えかねていたので、カタカムナの時間の観念を知った時、とても楽になったのです。

そう言えば、私はヒーラーになるずっと前から、未来に起こることの気配が何となく感じられることがあって、理屈云々を通り越して、「あ、こうなるんだな」とはっきりと分かることがありました。

たとえば、大卒ですぐに就職した会社で営業をしていた時、ある取引先に見積もりを持って行ったところ、競合する他社の中で決して通るはずのない金額だったにもかかわらず、なぜかこれが通ることが分かってしまいました。

自分でも不思議に思いながら、一体どういう経緯でこれが採用されるのか全く分からなかったのですが、やがてそれが明らかになります。ある事件が起こったことで、結果的に、私の会社の見積もりが採用されることになったのです。

その結果を知らされた時、「そういうことだったんだ」とやっと理解できたのですが、あの時私は未来から流れてくる時間の気配を受け取っていたのかもしれません。

時間は、絶え間なく滝のように未来から過去へと通過していきます。けれど私たちは過去から未来へと流れていくと信じているので、しばしばその流れを受け止めかねて、恐怖の中で身を固めつつ時間も止めてしまうのです。

そして、もう自分の時間は終わりだ!と信じてしまいます。

けれど、時間は絶え間なく未来から流れ続けます。決して終わることはありません。それは永遠に流れていく宇宙の摂理です。どうしてその流れに私たちが逆らえましょう。

自分で未来を拓かなくても、未来はやって来るのです。私たちは、ただリラックスしてそれを受け取ればいい。

そう考えたら、とても楽になりました。そのように未来を捉えたことで、安心して今この瞬間により深く居られるようになりました。

流れてくる未来の源に何があるのか、それは静寂の中で体験したあの計り知れない何かと通じるものが感じられるのですが、過去から未来に時間が流れていくと捉えていると、どうしても不足だらけの自分の枠を越えるのは難しくなってしまいます。けれど逆の時間の流れを考えたとき、自分の制限を外していくのがとても楽になるんですね。

今日は良い発見をした!とすっきりした思索でした。

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向き合う相手を深くよく見る

来週17日(水)の感情解放ワークショップですが、定員となりましたので受付を締め切ります。次回のワークショップは27日(土)となりますので、今回参加できなかった方は是非ご検討くださいませ。

さて。一昨日は満月の瞑想会だったのですが、ウエサク満月だったので、世界中の各地でこの日に平和の祈りの儀式やイベントなどがされていたと思います。サロンの瞑想会でも、そうしたグループの意識のグリッドにつながって、大きなエネルギーを感じることができました。

こんなにも温かで力づよく、美しいエネルギーのグリッドが地球を包み、この星の生きとし生けるもの全ての調和と平安を支えているのを感じるのは、私自身や参加された方にとっても、とても安らかなひと時でした。

ヒーラーになりたての頃はよく、地球のヒーリングなどをやっていましたが、最近はとんとご無沙汰でしたので、改めて意識を向けていこうと思いました。

そんなことを考えつつ日々の生活に戻ってきたのですが、現実には依然としてあれやこれやでしんどいことがあったりします。大きな世界に意識を向ける一方で、やっぱり目の前の現実は現実として在るのですね。

で、その気の重い現実で浮上する感情によって、過去の後悔や未来への不安がかき立てられてザワザワして仕方がなかったので、少し時間を取ってワークしてみることにしました。

1つは、昨年から新たに始めた習い事の先生への不満でした。どうにもこの先生が信頼できなくて、今自分がうまくいかないのは先生の指導が酷いからだとか、先生を責める考えが嫌でも湧き上がって来て止まりませんでした。

それほど、一生懸命やっているのに全く成果が上がらないことへの怒りや悲しみがあって、そのはけ口が先生になっているのでした。

そこで、面と向かっては決して言えない不平不満を、イメージワークの中で先生を呼んで来て、思う存分ぶつけてみました。取り敢えず、きれいごとで頭を納得させるのは止めて、心の奥底で渦巻いている言葉をとにかく吐き出していきます。

普通だったら「言うべきではない、そんな風に考えてはいけない」と思って止めてしまようなことも、吐き出すことを自分に許していくと、無意識に沈んでいて自分でもはっきりとは気づかなかったけれど、確かに私はそう思っていた、という思いがたくさん出てきました。

それと同時に、その思いに貼りついていた怒りや憎しみの感情もあらわになってきます。怒りがあることには気づいていましたが、憎しみがあることには自分でも気づいていませんでした。そうか、私は先生を憎み、恨んでいたのだな、と気づけたことで、心が少し楽になりました。

私たちはよく、自分の気持ちを隠すということをします。本心が相手に知られてしまったら、自分が愛されないとか見捨てられてしまうなどといった、都合の悪いことが起こってしまうかもしれないと思うと、私たちは自分の本当の気持ちを相手にも、自分からも隠して無かったことにします。

けれど、こうして隠してきた気持ちは、無意識の底で分離を産み、自分自身を苦しめます。自身の真実の気持ちに気づくということは、癒しの第一歩であり、本当の自身を取り戻すことへのスタートになります。

だから、自身の内側に見つけた感情がたとえ憎しみや恨み、怒りや嫉妬などといったドロドロとしたネガティブなものであったとしても、気づけたことで楽になるのです。

それは、心に刺さったトゲが抜けていくような感覚に例えられるでしょうか。

そうしてまず本音を吐き出したら、改めて相手の表情を見たり、印象がどう変わったかを確かめます。イメージの中の先生は、多少「悪かったな」と思って下さっているようで、以前よりは歩み寄って来てくれるようにも感じられました。今まではそれが全くなかったんですね。

さらに気づいたのは、私自身が先生をよく見ていなかったということです。先生に「私を理解しようと寄り添ってくれない」と不平不満を抱くけれど、私も先生を理解しようとはまったくしていませんでした。それどころか、見てさえもいませんでした。

向き合う相手を深くよく見るというのは人間関係を構築する上での最も大切なベースとなる部分ですが、ここができていない状態で互いに自分の意見を通すことに躍起になっていると、永遠に平行線をたどることになります。

相手を見ることで相手を知ることができますし、同時に、その時に浮上する自身の内側の感情にもよく注意を払って観察します。

かねてより私は先生を、あまりに波長が違い過ぎてさっぱり理解できない、と思っていたので、かなり早い段階から相手を知る努力を諦めてしまったのです。

分からないけれど、分からないなりにそれでもじっと見つめ続けていくと、理解不能な壁のように立ちはだかっていた先生も、壁は壁なりに微妙な揺らぎがあることが感じられました。

その壁に向き合いながら、今は自分の中に浮上する憎しみをじっと受け止めています。前回も私は神に対する憎しみを隠していましたが、今回再び浮上したのも憎しみだったので、このテーマは私の中で結構深く在るのだな、と改めて自覚した次第です。

大嫌いな人ではあるけれど、そうであるほどに私にとって重要なメッセージを差し出してくれるこの人との出会いに、感謝しつつ、じっくり取り組んでいきたいと思います。

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自分に向き合うことで触れる美しい真実と安らぎ

自分自身と向き合っていくと、必然的に心の奥に埋もれた様々な痛みの感情に触れることがあります。けれど、そうした過去の厄介な感情について、「わざわざ掘り返して蒸し返したくない」と言う方もいらっしゃいます。

このブログを長く読んでくださっている方はよくご存じかと思いますが、対処されないまま心の奥底に埋もれた感情は、今この瞬間を生きる自分い大きな影響を及ぼしています。

とても辛い出来事があった時、それを受け止めることが難しいと感じると、私たちはその感情を抑圧し、シャットダウンしてなかったことにしたりします。こうすると、痛みは一時的に和らいだり消えたように感じられるので、どうにか日常生活を送れるようになります。

けれどあくまでこれは緊急的な一時避難措置です。ずっとこのままでいいというわけではありません。

抑圧された感情のエネルギーは、一刻も早く対処してほしいと、自身に様々なサインを送ってきますが、のど元過ぎて熱さ忘れた私たちは、その呼びかけに現実感がなかったり、当事者意識がさっぱり持てなかったりするのです。

けれど、自分自身にそうして見捨てられた「抑圧された感情」は、「見捨てられた。誰も助けてくれない」と深く悲しみ、絶望的な気持ちになります。これが、私たちの日常の気分にじわじわと滲み出してきて、これといった理由もないのに生きることが辛かったり、もの悲しくなったりするようになるのです。

また、自分が自身の一部を切り捨て、無視するというこの構図は、「鏡の法則」を通して現実にそっくりそのまま投影され、周囲の人が自分を切り捨て、無視するといったような状況を引き寄せるようになります。

だから、苦しいことは無かったことにして終わりにできる、と言うようなことは絶対にないのです。

ただ、今現在自身がそういう状況にあったとしても、「抑圧された感情」に対処していけば、人生はもっと生きやすくなっていきます。

長い間断絶していた自分自身のカケラを再び取り戻し、統合していくことで得られる安らかさや、在るべき場所にいるという安心感、自分自身への信頼などが感じられるようになっていきますし、自分の在り方が変わるので、それを投影していた厳しい人間関係も、ぐっと優しいものになります。

辛い状況に在ると、なかなか自分を顧みる時間や精神的余裕が無かったりするものですが、実はそういう時ほど自身の内なる声に耳を傾け、応答することをしていくと、状況は段々優しいものになっていきます。

私自身の体験でも、やることがどうしても苦痛で朝から気が重かったことが、ワークをして浮上していた感情をしっかり感じてから現場に赴いたら、それをやらずに済んでいたというようなこともありました。

また、会いたくない人に会わなければいけないようなときも、同じようにワークしたら、その人に会うことなくものごとがスムーズに進んだということもありました。

数え上げればきりがないですが、今この瞬間に浮上している感情は、過去に抑圧してきた感情と全く同じ質のものであるということがしばしばあり、それを浮上させるきっかけとなった出来事は、私に感情を受け止めさせるために起こったのだということが分かるのです。

だから、差し出されたものをしかと受け取って完了させてしまえば、それ以後、そのテーマが繰り返されることはありません。繰り返すのは完全に完了していないからで、感情のエネルギーのボリュームが大きいが故に、段階的に受け止めていくからでしょう。

深く深く自分を見つめていくことは、自分を知るだけではなく、他者を知ることでもあり、またさらに大きな人生を導く力に触れることでもあります。

他人の中に投影していた自分の醜い側面が、本当にその人のものではなく自分のものであったと気づくときの世界が大きく変わる感覚は、自分が信じていた被害者と加害者の二元性の世界観を根底から覆します。

そのとき、筆舌に尽くし難かった出来事の意味が一瞬にして、信じられないような深い愛に変わるのです。

自分に向き合うほど、ただ表面的に生きているときには絶対に触れられないような、美しい真実と安らぎに触れていきます。

けれどそこにたどり着く前に、絶対に認めたくなかった自身の醜さやズルさを嫌と言うほど見るでしょう。

それでも、私は見たらいいと思うのです。あなたは、そのような醜さや狡さなどはるかに超えた存在なのですから、自分でその真実にしかと触れるまで、光と闇の両極を見続ければいいと。

この道を行く方は、決して焦らず、けれども一歩一歩丁寧に歩んでいかれますように。

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「今この瞬間」のすべてを否定しない在り方

「目覚め」や「悟り」などのキーワードがあちこちに溢れかえっている昨今、「今この瞬間」に居ることが大切だということは、多くの方々に知られていることだと思います。

けれど、なかなか「今この瞬間にいる」というのは難しいことだとつくづく感じます。正確に言うと、「今この瞬間に根付いている」ということなのですが。

前者の「今この瞬間にいる」というのは、レナードの言う目覚めへのツーステップの第一ステップになり、これはさほど難しいことではないとレナードは言います。まぁ個人的には、一瞬たりともプレゼンスに居られなかったときもある私なので、レナードの言葉に同意しかねる部分はあるのですけれどね。

そして後者の「今この瞬間に根付いている」というのは、目覚めへの第二ステップになります。これは、抑圧された感情の解放やエゴとの正しい関係を築くなどのマスターレッスンが含まれるので、段階を追ったプロセスになります。

今この瞬間に居るだけでなく根付いているには、非常に注意深く意識を観察する習慣が必要です。私たちは普段ほぼ無意識にあれこれ思考し、また行動しているので、その無意識の部分のすべてが意識に登っていなければ、根付いているとは言えません。

今年4月のリトリートで、表現は違ったかもしれませんが、レナードは「すべての無意識を意識に浮上させる」と言うようなことを言っていました。

凡人の私からすると、そんなことが果たして本当に可能なんだろうか?と途方に暮れる思いがしますが、プレゼンスに根付くというのはそういうことなのでしょう。

無意識に思考すること、無意識に行動すること、無意識に身体から離れること。24時間すべての時間で全くこれがないというのは、まさに超人だな、と思ってしまいます。それだけ、私たちが本来の「存在」から離れてしまっているのでしょうね。

以前、週末のワークショップだったかリトリートだか忘れましたが、レナードが「私を見ていなさい。一瞬でもプレゼンスが途切れることがあるかどうか」と言うようなことを言って、椅子から立ち上がり、周辺を歩き、また座って見せたことがありました。

私には、どの瞬間もごく自然に同じ密度で意識が保たれているように感じられました。当時はそのくらいしかわからなかったのですが、ヨガを習っている今、このときのことを思い返すと、すごいことだと改めて思います。

私が習っているガネーシャ・ギリ先生のところのヨガでは、意識操作も非常に重要な要素になるのですが、私がポーズをやっても、まず最初から最後まで均一な意識を保てることなど皆無です。必ずどこかで意識の揺らぎがあったり、瞬きの前後で意識が変わってしまったり、思考が入ったりするからです。

そして今年のリトリートの時も、レナードはプレゼンスに在るときとそうでない時の違いを見せてくれました。このときは、ステージ下から脇にあるピアノのところまで歩いて、「これは無意識の時」「これはプレゼンスに居るとき」と言って二パターンを見せてくれました。

無意識だという時も、私にはとても優雅に「今ここ」に居るようにも見えました。私だったらこれがプレゼンスだと言ってしまいそうです。けれど次にプレゼンスの歩き方を見たとき、その違いがはっきり分かりました。

最初の時は、「ピアノのところに行く」という目的に意識を固定させていたので、確かに意識は「今ここ」にはありませんでした。プレゼンスの歩き方では、瞬間瞬間に完全に意識がありました。

目的にフォーカスして今ここに意識がないという状態、確かに心当たりがあります。リトリートの時、私は「何かを掴んで帰る」という目的にがっちりと意識を固定させたことで、期待を抱いてしまったため、肝心のプレゼンスに居ることがなかなかできなかったのです。

また、日常のあらゆるところで「目的」と「期待」を持ってしまう癖が骨の髄まで浸透しているようで、現時点→目的地と言う構図の中の、どの地点においても「今この瞬間」が無いことがわかります。

現時点は、変えるべきあってはならない現実なので、即座に否定されてそこから去っていますし、→は目的地に行くことが最重要であると認識する私にはさっさと通過すべき重要ではないところとなり、目的地はたどり着いたらすぐに用のないものとなるのです。

こんな生き方をしていて、一体自分の人生を生きていると言えるのでしょうか?

私たちの社会では、目標設定とその達成がとても重要視されます。目標を設定したら達成までのあらゆる瞬間は、達成のために費やされる二次的なものとされがちです。もちろん、プロセスも大事と言われることもありますが、結果が出なければ元も子もない、という強烈な脅迫観念があるのではないでしょうか。

プレゼンスは、ある意味これとは全く違った在り方のレベルなので、ややもすれば目的や期待を抱いて前のめりの意識になってしまう私たちには、微妙に今この瞬間からずれてしまうそうした癖に気づき、様々な心理的葛藤と超えて実践し続ける注意力が要りますね。

「今この瞬間」のすべてを否定しないというのは、本当にすごいことです。今日も一体どれだけ自身の現実に不平不満を言ったか。「今ここ」とは違うものを求めない在り方を通して気づくことも多そうです。注意深く取り組んでいくことにします。

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最も深い痛みの感情を内なる静寂で支える

一筋縄でいかないことの多い人生、多かれ少なかれ失望や不安を抱えながら日々を過ごした経験がある、あるいは今まさにそうであるという方は少なくないと思います。

起こっている出来事の深刻さのいかんにかかわらず、何もなくてもあっても、私たちは失望したり不安になったりすることがあります。

そうした感情が浮上しているときはどうにも落ち着かないもので、何とかしてこれを収めようと話を聞いてくれそうな人を捕まえては吐き出したり、何か全く別のことをやって気を紛らわせたり、原因と思われるものごとを収めるために良いと思われることを手あたり次第にやって見たりと、とにかく駆り立てられるように行動します。

落ち着かないエネルギーに逆らって、その中で落ち着いて自身の静寂に向かうというのは、なかなかに至難の業でしょう。

駆り立てられるエゴは、とにかく費用対効果、コスパ、それをやったらどうなるのか?を知りたがり、それが分からないと無意味なものだとみなしますし、明確にそれを示してくれるものに対して、むやみやたらに飛びついてしまうこともよくあります。

自身の内なる静寂に向かうことは、そうしたエゴの衝動的な在り方とは真逆のことで、明確にコスパや未来像をしてしてくれることはありません。

確かに、そうした在り方のメリットを説明してくれるものはあるかもしれませんが、エゴの頭で理解できるような形で原因と結果、こうだからこうなるというような説明ではないでしょう。

内なる静寂は、そうした直線的な因果律で説明できる働きをはるかに超えた働きとパワーを持っているので、エゴの理解の仕方にはそぐわないのです。

ここが私たちを内なる静寂に向かわせる弱点でもあり、一方でそのことは私たち自身の在り方を試す関門と言えるかもしれません。

つまり、エゴの理解を超えた在り方に根本的に移行していくことに同意するのかどうか?と言う問いかけです。

在り方への問いかけは、頭で答えることはできません。自身の存在のあらゆるレベルをかけた実践によって、応答していくものです。

落ち着かない感情のエネルギーが浮上する中で、自身の静寂に向かうという通常あり得ない在り方を実現するには、それなりのプロセスがあることと思います。

私自身も、日々数えきれない失敗と挫折を繰り返しつつ、ただ諦めないことだけで何とか歩みをつないでいます。

最近は特に「ダメな自分」に向き合うことが多いのですが、「ダメだなぁ」という失望感などが浮上するときは決まって頭の中に思考があれこれ駆け巡っているので、その中で何度も何度も、内なる静寂に意識を向けるということをしています。

なかなかできないものですけれどね。最も深い痛みの感情を、内なる静寂で支えるというようなイメージになるでしょうか。

これは、今までたくさん感情を受け止めることをやってきたから、できないなりにも、たぶんここまでできるようになったのだろうと思うのですが、しっかり静寂に留まれると、さざ波立つ感情の不快感がす~っと落ち着いていくのが分かります。

この原理、場の浄化にも使えそうだなと、直感的に思いました。あるいは、時空を超えた癒しにも。

古今東西のマスターたちは、きっとこうして世界に尊いバイブレーションを送り続けてきたのでしょう。

よく、聖者は行動することによってではなく、ただ静かに座すことによって、偉大なる働きをしているのだということが言われます。

それに対して、いつの時代も「そんなのあり得ない!聖者も行動すべきだ!」という意見があったりして、一体聖者が何をしているというのか?と理解できない人も少なくはありませんでした。

けれど、確かに静寂のパワーは人の行為よりもはるかに凄まじい、桁違いの働きをしていました。

自身の内なる静寂が自分を超えて広がっていくのを感じながら、何だか変容が起こっているようです。まぁ、起こることとともに居るとしましょう。

内なる静寂のブラックホールに引き込まれそうな感じがしていますが、しっかりそれを実況中継する左脳が働いているところがまた私らしいと言えば私らしいのかも。(^^;

エネルギーが落ち着くまで、ちょっとかかりそうなので今日はこのくらいにしておきます。

満月を前に、色々始まっているようです。

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覚えていることの恩寵

明後日は満月ですね。特に今月の満月は「ウエサク満月」と呼ばれ、特別な意味を持っています。このウエサクの起源はインドにあり、お釈迦様の誕生と悟りを開いた日、入滅の日が全てヴァイシェーカ月(インド暦の第2月)の第一満月だったという伝承から来ているそうです。

ウエサクという聞きなれない言葉は、このヴァイシェーカがなまったものと言われています。ウエサク満月を祝う習慣はタイやミャンマー、チベット、タイなどアジア各地に広がって、日本でもこれに合わせたお祭りをするお寺などありますね。京都の鞍馬山のウエサク祭は有名です。

そんな特別な満月の日に、サロンでも瞑想会を行います。ここのところ、夜空に浮かぶ満ちつつある月を見ていると、とてもパワーが強いな~と言う印象があるのですが、満月の日はパワーマックスになりますね。まだお席はございますので、興味のある方は是非お越しください。お申込みはこちらからどうぞ。

さて。今週の無料遠隔ヒーリングは「人生を導く大きな力(神)」がテーマなので、神について色々と思うことが多くなっています。

私たちは日々、様々な出来事の中で揺れ動く心情を体験します。今日はとても幸せだった!と思う日もあれば、次の日には人生最悪の日だったということもあるでしょう。

一喜一憂する気持ちに振り回される中で、変わらず神に意識を向け続けることはなかなかのことだと思ます。

私自身、今は在る意識状態になればいつでもプレゼンスの神に触れることはできるようになっているのですが、日常の心乱される出来事の中で、神へ意識を向けることを容易く忘れ去ってしまいます。

本当は、普通にしている状態でいつでもそれを感じられているのが良いのでしょうが、まだまだですね。

できる限り細切れの時間を見つけては自身の内側に居るこの神に触れるようにして、少しずつの積み重ねで、自分の存在のあらゆるレベルに神が体現できればいいな、と思っています。

大胆な願いかもしれないと思う一方で、それは本来の人間の自然な在り方であり、全ての人が当然そうであるべきだとも思うのです。

神と人間とのつながりを言うとき、少なからぬ人が、神に自分の意思をねじ伏せられて支配されてしまう!と感じるようです。私自身もかつてそのように思っていたことがあるのですが、実際神に触れてみれば、それはそういう類のものではないことが分かります。

そのような人は、恐らく魂の記憶の中で、神の名のもとで耐え難い苦しみを味わってきたのだと思います。私自身もそうだったので、今でこそかなり癒えてきていますが、かつては「神アレルギー」でした。どんなに頭で違うと分かっていても、それとは関係なく苦しいアレルギー反応は勝手に出て来てしまうのです。

そのアレルギーを癒せたのは、神に関するたくさんのネガティブなストーリーに絡みついていた未完了の感情を解放してきたからです。ある程度の時間をかけて段階的に癒えてきたのですが、神に本当に向き直る覚悟ができたのは、つい最近のことです。

神との関係がこじれているということは、すなわち自分や世界、他者とのあらゆる関係がこじれていることになります。だから、自分は無神論者だから関係ないとかいうことではないのです。

概念ではない、リアルな神は、今この瞬間にも全ての人の中に存在しています。そしてそれは、一部の特別な人だけが触れることのできるというものでもありません。おそらく、ここに触れずに意義ある人生を歩むことはできないのではないかと私は思っています。

私たちは、概念の神にすら、自分が苦しい状況に突き落とされると、途端に「見捨てられた。助けてもらえない。神は当てにならない。神なんていない!」と自ら神から離れていくことがよくあります。

けれど本当は、辛い状況になったときほどしっかり神に意識を向けていることが大切です。とは言えそれは、なかなか一筋縄ではいかない難しさがあります。

じりじりと不安に身を焦がすときや、荒れ狂う感情の嵐に我を見失いそうになるときでも、神を思い出し、そこに意識をじっと向けられることは、聖者の言葉の通り、まさに恩寵であると思います。

インドの聖者ラマナ・マハルシは、「私を覚えていることが恩寵である」と言いました。

出会っても、すぐに忘れていく人もいたり、さっぱり覚えない人、そもそも出会わないという人もいます。そんな中で、出会い、今日覚えている。翌日も朝目が覚めたらまだ覚えている。1週間後、1か月、1年、5年後にまだ覚えているということ自体、確かに恩寵以外の何物でもありません。

そういう意味で、私も師であるレナードの存在をまず知ったことが最初の恩寵であり、実際に会えたこと、その後今に至るまで離れずにその教えを実践し続けてこられたことが、どれだけの恩寵なのか、思わずにはいられません。

苦しいことがあるとき、自身の内なる神を思い出せる恩寵、そこに深く意識を向け、導きに触れられる恩寵、それを繰り返し、継続し深めて行ける恩寵。そうした恩寵を、祈り求めて行きたいものです。

人生は、とかく迷いやすいものです。意識を定めるものがなければ、容易く自身の居場所を見失い、混乱してしまいます。どうぞ自身の深奥に深く根を下ろして、「否定のしようのない真実」に触れていかれますように。

私たちが、人生に満ちている恩寵の数々に気づくことができますように。

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第341弾 無料遠隔ヒーリング

毎週月曜日は恒例の無料遠隔ヒーリングのテーマの設定日です。 第339弾のご感想と、4月29日感情解放ワークショップのご感想をホームページにアップしましたので、参考になさってみて下さい。

さて。前回のテーマは「思うようにならない苦しみを在るがままに受け止める」でしたが、みなさんはいかがだったでしょうか?私自身ももがきながらもその中から一段、深くなったものを得たテーマでした。

苦しいとき、私たちはどうしてもそれから逃れるために身をよじってあがきます。そこから逃れられるなら何だってしよう!と必死になって、少し長い目で見たら明らかに良くないものでも、目先の利益に飛びついてしまうことがいくらでもあり得ます。

冷静な時であれば決してしないようなことを、極限状態の時はいともたやすく節制のタガが外れてしまうのですね。だからこそ、非日常の辛さの状態でどれだけのことができるのかが試されるのかもしれません。

テーマ発表からここまで、私の中でも繰り返し差し出し続けているテーマが何度も浮上してきました。どうしても思いように行かない。徹底して私に惨めさや無力感を感じさせる場面を見せられるのです。

その度に、状況自体をどうにかしようとするのではなく(やるべきことはもちろんやりますが)、その状況によって浮上している気持ちを受け止めたり、もっとしっかり神に意識を向けて対話しようと意識してきました。

私は無力だったり惨めだったりする自分が突き付けられると、無意識にもそれをさっとかわして受け止めることなく、そうではない自分になろうと躍起になっていました。或いはその状況から目をそらして一切触れないようにするなど、感じたくない自分から逃げ回っていたのですね。

「惨めさ」や「無力感」に、悪いことをしてしまったな、と思います。完全に無視してスルーしてきたわけですから、感情のカケラ君たちも悲しい思いをして来たでしょう。

今、再びそれらに意識を向けて固まっているエネルギーに命のエネルギーを送ってあげます。

そうした対処と同時に、今回より深まったと思ったのは、神との関係でした。以前はできる限りこの言葉は使わないように意識していた時期もあるのですが、人間の霊性が成長していくプロセスで、やはりここは避けては通れないところだと思って、最近は頻繁にこの言葉を使っています。

けれど、私の言う神はいかなる宗教の神でもありません。(たまに、私が礼拝しているインドの神様について言うときは別ですけれど)

私が言うのは、誰しもの存在の奥深くに実在する神のことです。概念の神ではないリアルな神、プレゼンスが深まっていく時に実際に触れる(感じる)神としか言いようのない存在のことです。それは確かに、今ここに在るのです。

これまで私は、現実が思うようにならない時、神が私を見捨てたのだとか、神はちゃんとしてくれているのだろうけれど、自分がダメなのだと、神と自分を切り離して一人でもがいていました。

けれど、神が私の願いを聞いてくれないと思うときほど、実は神から離れるのではなく、しっかり対話することが大切だと思い直し、失望を乗り越えて神と対峙することにしたのです。

そして色々と、神と対話しました。「神よ、あなたはこの私を見捨てたのだろうか?」「なぜ現実は私が思うようにならないのか?何か私に不備があるのだろうか?」などなど、問いかけていきました。

質問しながら、じっと自身の内側に神を感じていると、神は実際、私から離れてはいませんでした。ますます輝きながら、私に力を送ってくれていました。

また、思うようにならない現実があることで、私は必死に神と対話しようというスタンスになれたので、この状態も、魂のレベルでは決して間違いとは言えないのだとも感じました。

うまく行っていたなら、間違いなく神からさらに遠く離れて「自分の力」でますます頑張っていたでしょう。「自分の力」では決してうまくいかないので、「神の力」に触れるように導かれているのでした。

確かに私は「誰も当てにできない、神さえも」と思っているところがあるので、自分で何とかしなければならないといつも思っています。けれどこの現実は、そんなガチガチの在り方を転換して行きなさいという呼びかけなのでしょう。

神を当てにできないと思うのは、失望故に分離しているからです。だから今回、失望の痛みを超えて分離という方向性を転換させました。そうしたら、神はより奥深いものを沈黙を通して私に見せてくれました。

それは、全ての調和の源がここに在り、パワーが生まれるところ、全てが始まるところです。

こんな力に、自分が敵うはずはありません。

エゴがしがみついているものから手を離す前には、必ず神への降参(サレンダー)があります。そしてその前には、神との本音の対話があるのだろうと思うのです。

今回は、普段頭で納得させて抑えている「人生を導く力(神)」に対する不信感を吐き出し、言いっ放しではなく、しかと意識のピントを合わせて対話することをテーマにしてみます。

というわけで今週のテーマはこちら。

「人生を導く力」に対する不信感を吐き出し、しかと対話するよう最高最善に働きかける

参加される方は、「無料遠隔ヒーリングの受け方」ご覧になり、 ご理解のうえ5月10日(水)17:00までにメールまたはメールフォームにてお申し込み下さい。 同日20:00より順次働きかけを行っていきます。

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